三輪山平等寺!島津義弘を匿った歴史

「鬼島津」と恐れられた戦国時代の猛将・島津義弘。

関ヶ原の戦いで西軍に付いていた島津義弘ですが、東軍に追われ、伊賀国名張から三輪山平等寺に入り、その後大阪の堺へ逃れて行ったと伝わります。島津氏の出身地である薩摩では、信楽から奈良を通過して落ち延びたと公伝されています。果たしてその真実やいかに。

三輪山平等寺山門

三輪山平等寺山門。

門前に「一相平等」「三輪清浄」と刻みます。

かつては大神神社の神宮寺でもあったお寺です。聖徳太子を開基とし、門を入るとすぐ右手に聖徳太子像が建っています。

三輪山平等寺の磐座
三輪別所の平等寺は、曹洞宗のお寺として知られます。 山の辺の道沿いに建ち、境内の二重塔が目を引きます。聖徳太子を開基とし、中興の祖を慶円と伝えます。ご本尊は十一面観音菩薩で、境内で行われる坐禅体験も人気を呼んでいます。 三輪山平等寺の磐座。...

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平等寺で70日間匿われた落ち武者伝説

関ケ原の合戦で追い詰められ、果敢に敵中突破を図った千人余りの薩摩藩兵。

奈良県境に近い名張まで来ると、その数も80名となり、最終的に落ち延びた平等寺では島津義弘公を含め主従13名となったそうです。平等寺からは山伏の護衛が付き、島津公のみを竹之内峠越えで堺市の商人の元へ送り届けたと伝えられます。

島津義弘ゆかりの寺

本堂の横にも幟旗がはためきます。

島津家の家紋・轡十字(くつわじゅうじ)が記されていますね。

平等寺二重塔

平等寺二重塔『釈迦堂』。

二重塔には、生身釈迦像やインドダルマラジカ寺伝来の仏舎利が納められているようです。塔の周りには墓石が並んでいました。

平等寺二重塔

三重塔や五重塔は数あれど、二重塔とは珍しい!

仏舎利を納めるのが塔ですが、その左側には十六羅漢像が並んでいます。

平等寺の十六羅漢像

胸を開く十六羅漢。

これは羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)でしょうか?

羅怙羅尊者は十大弟子の一人でもあり、釈尊の長男とされます。十六羅漢では第十一尊者に当たり、梵名をラーフラと言います。この「ラーフラ」という名前が曲者で、サンスクリット語の日蝕、月蝕の「蝕」を意味する「ラーフ」を語源としています。つまり、太陽や月の光を覆うもの・「障り」(さわり・差し支える)を意味します。さらにそこから派生し、「悪魔」の意味も持つようです。

なぜお釈迦様は長男に「悪魔」をにおわせる名前を付けたのか?

それは羅怙羅の出生の経緯に由来しています。実は釈迦が出家する直前に生まれた子であったため、自身の出家の決意を鈍らせる存在であったことから「ラーフラ」と名付けたようです。生まれてくる子に罪はありません。なんとも言いようのない逸話ですね。

十六羅漢像と不動堂

様々なものを手にする十六羅漢像。

背後の建物は不動堂です。

平等寺の人像石!行場『不動の滝』
三輪山麓の磐座巡りで訪れた平等寺。 影向石の他にも、不思議な石造物がありました。神の依代と伝わる影向石は、間違いなく三輪山麓の磐座でしょう。今回取り上げる石造物が磐座であるか否かは不明です。その辺りには触れず、とりあえずレポート致します。 ...

平等寺の十六羅漢像

表情も豊かですね。

永くこの世にあり、仏教を護持しようと誓った16人の羅漢たち。

平等寺参詣の見所の一つにもなっています。

三輪山平等寺境内

その背後には竹林が広がっていました。

この先は三輪山へと通じているのでしょうか。

山の辺の道

山の辺の道の石標。

平等寺から金屋の石仏方面へ向かう手前で、来た道を振り返ります。

史実を辿れば、様々な発見があるものですね。平等寺と薩摩の関係は、きっと今も続いているのでしょう。

平等寺の花手水!三輪明神を示す石標
すっかり市民権を得た感のある花手水。 新型コロナウィルスの感染拡大により、あらゆる場所で非接触のアイテムが見られます。 当館でもアルコール消毒液の電動噴霧器や紙コップディスペンサーなど、非接触型の設備を導入しています。寺社で身を清める手水の...
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