豊浦寺跡(向原寺)に伝わる観音菩薩像。
小さい仏像ではありますが、その由来を知れば誰しも襟を正すこと請け合いです。この度、飛鳥京観光協会ボランティアガイド20周年記念ウォーク「感動!明日香の仏像」のイベントの一環として、向原寺観音菩薩像の拝観が予定されています。
向原寺本堂内に並ぶ観音菩薩像の写真。
実物の観音菩薩像はガラスケースの中に収められており、光が反射して少々見えにくいのが玉に瑕です。こういう引き伸ばされた写真があると、お顔の表情もよく分かりますね。ふらりと立ち寄った豊浦寺跡で、好運にも本堂内を拝観させて頂くことになりました。
微笑みをたたえる帰還仏
向原寺(こうげんじ)の拝観料は200円です。
本堂内陣の仏像拝観と豊浦宮遺構見学を合わせて200円の拝観料となります。向原寺の観音菩薩像は日本で初めて祀られた仏像なのかもしれません。そんな話題性に富んだ仏像を至近距離から拝むことができます。
豊浦寺跡(向原寺)の本堂。
拝観の際にお世話になったご住職にお礼を申し上げ、お寺を後にします。タイミング良く本堂に光が差し込み、神々しさが伝わる一枚となりました。
ガラスケースの中に安置される向原寺(豊浦寺跡)の寺宝・観音菩薩像。
ご住職や私の姿が映ってしまっていますね(笑)
実はこの仏像は盗難に遭っています。昭和49年9月上旬のこと、本堂内陣に祀られていた金銅製観音菩薩立像が厨子と共に忽然と姿を消したのです。一度は盗難に遭った観音菩薩様ですが、2010年9月に無事帰還を果たしています。会員制オークションに出品されているのが見つかったそうです。
大抵の盗難仏は出所を分からなくするために傷を付けられることが多いのですが、奇跡的にこの仏像は無傷の状態でで元の場所にお戻りになられています。
豊浦寺跡の門前に解説板がありました。
603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦仏(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目が賜り、向原の家を浄めて寺にしたのが始まりで日本初の寺とされている。しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。
物部氏によって投棄されたという仏像。
仏教の象徴であるその仏像こそが、今回拝観させて頂いた観音菩薩像なのかもしれないのです。実に心ときめくお話ではないでしょうか。
本堂向かって左側にある推古天皇の豊浦宮遺構。
豊浦宮から始まる飛鳥時代のことを思うと、目の前の遺構がどれだけ重要なものであるかが分かります。33代推古天皇から42代文武天皇に至るまで、実に1世紀もの長きに渡って飛鳥の地に皇居が置かれました。
ちなみに豊浦寺は、皇居が豊浦宮から小墾田宮に移された後に建てられています。
本堂外陣。
本堂前で清掃中の女性に声をお掛けして、拝観させて頂くことになりました。
促されるままに本堂前で靴を脱ぎ建物の中に上がります。向かって左側に回り込み、そこでまたお寺の草履に履き替えて豊浦宮の遺構を見学します。ご住職の解説に耳を傾けながら、飛鳥の歴史に想いを馳せます。
観音菩薩像のお顔の写真。
右手向こうに見えているのが、実物の観音様です。
盗難に遭った際に厨子ごと持っていかれたようで、残念ながら帰還したのは仏像のみで、その仏像を収める厨子は返ってこなかったそうです。
仏像のお顔をよく拝見すると、口角を上げたアルカイックスマイルが実に印象的です。
飛鳥仏に見られる独特の微笑みが、私の目を捉えて離しません。日本最古の仏像とされる飛鳥寺の釈迦如来像もアルカイックスマイルをたたえていますが、向原寺観音菩薩像の方がやや柔和な感じを受けます。どこか童子を思わせる幼さも感じさせます。
頭上の冠飾に目をやると、阿弥陀如来の化仏が線刻されているのが分かりますね。
実はこの仏像は、頭部のみが飛鳥時代の作で、首から下は江戸時代に作られているそうです。ご住職のお話によれば、頭部は百済仏の系譜を受け継いでいるのではないかとのことです。
金銅製の光背も実に見事です。
江戸時代作の光背ですが、手の込んだ唐草文様が美しいですね。
頭部の表面には「ス」が見られます。
ちょっと痛々しい感じもしますが、歴史に裏打ちされたその表情を見ていると、金銅仏の肌の「ス」さえも勲章のように思えてきます。
「感動!明日香の仏像」のチラシには、飛鳥大仏と並んで向原寺の観音菩薩像が案内されています。
~古より人々を見守ってきた御仏達を巡る~という副題付きで、橘寺の如意輪観音像、岡寺の如意輪観音像も併せて紹介されています。日本最大の塑像である岡寺如意輪観音も迫力があっていいですが、小さくても様々なエピソードに彩られた向原寺観音菩薩もイベントの見所の一つではないでしょうか。
難波池と善光寺縁起
向原寺の観音菩薩像を語る上で、お寺の手前にある難波池を外すわけにはいきません。
日本仏教史にその名を残す難波池。
難波池とは一体どのような池なのでしょうか。
難波池神社の祠。
この祠の左奥方に豊浦寺跡(向原寺)の山門が控えています。
神か仏かどちらを崇拝すべきなのか!?
日本古来の神様を敬うべきとする物部氏が、対する崇仏派の蘇我氏と対立することになりました。今の時代なら、「神様仏様」と分け隔てなく敬えばいいのではとも思うのですが、舶来の仏教が日本に入って来た当初は混乱も見られたようです。
世に疫病が広まったこともあり、物部氏はその原因を蘇我稲目が仏像を祀ったこととしました。神の祟りと捉えた物部氏は仏像を難波の堀江に捨て、寺を焼却したと伝えられます。明治の代にも廃仏毀釈の波が吹き荒れましたが、それよりもずっと以前に、”神か仏か論争” 的なことが行われていたのですね。
流造の難波池神社。
この池に仏像が捨てられたと伝わります。
天皇の許可を得た物部守屋は、海柘榴市で寺の尼たちに刑罰を科したそうです。多くの見物人の前で鞭打たれる尼たち・・・交易や歌垣の場所として知られる海柘榴市ですが、刑を処する場所でもあったようです。
さて、物部氏によって投げ捨てられた仏像ですが、後に信濃の善光寺に祀られ「善光寺縁起」として語り継がれることになります。
新しく生まれ変わった太子山向原寺の山門。
向原寺(豊浦寺跡)のことを元善光寺と称することもありますが、その理由が善光寺縁起に起因していることは言うまでもありません。
浄土真宗本願寺派の太子山向原寺。
以下、向原寺拝観の際に頂いた向原寺縁起から一部抜粋させて頂きます。
さきに百済の聖明王は仏像経論を献ずると共に仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通をすすめましたが、物部尾輿・中臣鎌子等は強くこれに反対し、向原の寺を焼き、仏像はナニワの堀江に捨てました。
その後推古天皇の8年、信濃国主に従って上都した本田善光(同国伊那群誉田の人)が、或日のこと都見物をしようとて、難波池の辺りを通りますと「善光 善光」と呼ぶ声が聞こえるので善光がふとその方を向くと、池中から光がさして来ます。よく見るとそこにはピカピカと金色に輝く気高い霊像があります。
善光は驚いてすぐさまこれを拾い上げ、傍なる瀧ですすぎ清めますと、それは世にも珍しい霊妙不可思議の三尊像であります。
これこそかねてから話に聞く阿弥陀如来の尊像に違いない。吾等衆生救済のため、五劫にわたる思惟を重ね苦行を積んで下さった御仏であると、有難涙にくれながら、この仏像を背に負い信濃に返って我が家に安置し一心に礼拝供養致しました。
これが信州善光寺の起源であると申します。
元善光寺と呼ばれるようになったいきさつがよく描写されていますね。
本堂内に掲げられた太子山の扁額。
欄間の彫刻が躍動しています。
向原寺の御本尊は阿弥陀如来ですが、難波の堀江で発見されたという観音菩薩像(飛鳥時代)が寺宝として伝わります。固く閉ざした内陣右側の扉の向こうに観音菩薩様が安置されています。
これはかつて向原寺の山門を飾っていた蟇股なんだそうです。
今は新しくなった山門ですが、この蟇股も時代を経るごとに寺宝としての価値を高めていくのかもしれません。
穏やかな表情です。
とても盗難に遭っていた仏像とは思えません。
再びこの地に戻されたのも何かの意味があるのでしょう。それほど重要な仏像だと思われます。
こちらは本堂右手前に佇む向原寺の薬師堂。
かつての豊浦寺は広大な寺域を誇った大寺院であったと推測されますが、今の境内はこぢんまりとしています。豊浦集落の地下には豊浦寺の塔跡が残っているはずです。飛鳥寺、豊浦寺、法隆寺、四天王寺と続いていく仏教寺院の流れを思えば、いかに豊浦寺の存在が重要であるかがうかがえます。
薬師堂の向かって左側のお堂。
うん?まだ新しいお堂ですが、この建物のことをお伺いするのを忘れておりました。
向原寺の山門。
飛鳥は歴史が深い。
向原寺(豊浦寺跡)はそのことを改めて感じさせてくれるお寺です。
かねてからアスカの語義については様々なことが言われています。アスカは禊(みそぎ)を意味しており、イスケやイスズと同じ系列の言葉であるとする説もあります。あるいは人が安居(ヤスイ)する所だとする説も語られます。
池に捨てられていた仏像を拾って、近くの瀧で清めたという逸話には禊ぎのニュアンスが感じられます。実際に今も、甘樫丘休憩所から難波池に辿り着く手前には伝説の瀧が残されています。飛ぶ鳥の明日香は ”禊ぎ” に端を発していたのかもしれない・・・そんなことをふと思いました。