東大寺大仏殿の再建

東大寺大仏殿は二度焼失しています。

その度に再建された歴史が、東大寺大仏殿の中に展示されています。

鎌倉時代の東大寺大仏殿

鎌倉時代の東大寺大仏殿の模型。

東大寺大仏殿の建設は、奈良時代に行われています。建物の建設は大仏が造られた後のことであり、中に安置される大仏が先に鋳造されました。天平15年(743)に滋賀の紫香楽宮で廬舎那仏造立の詔が出され、天平勝宝元年(749)10月に東大寺の大仏が完成しています。その後、758年(天平宝字2年)に大仏殿が無事に竣工しました。

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兵火で焼け落ちた東大寺大仏殿

歴史は下って源平の戦いの折、治承4年(1181)に平重衡の南都焼討に遭い、敢え無く大仏殿は焼失してしまいます。

その後、東大寺再興に尽力した重源の活躍により、文治元年(1185)に大仏開眼供養が行われ、5年後の建久元年(1190)には大仏殿が完成しました。さらに建久6年(1195)に落慶法要が盛大に営まれ、建仁3年(1203)には再建事業が完成を見ます。後白河上皇や源頼朝の列席の元、東大寺総供養が行われ、鎌倉時代の東大寺大仏殿として見事に復興を果たします。

鎌倉時代の東大寺大仏殿

鎌倉時代の大仏殿の模型。

大仏殿の中に毘盧遮那仏が垣間見えます。

東大寺の瓦寄進

東大寺の寄進瓦。

筆で願い事を書いて奉納します。

世界最大の木造建築物として知られる東大寺大仏殿。これだけの建物ですから、屋根の上の瓦の重量も相当なものではないでしょうか。屋根瓦を軽量化する取り組みも行われていたようですが、歴史学者の樋口清之氏の「梅干と日本刀」には、東大寺大仏殿が地震や台風によって倒壊しない理由が書かれています。

瓦の発想は ”うろこ” である。元来、魚の鱗のことを ”かわら” といったくらいだが、中国ではこれを屋根にクギで固定する。

日本人はこれを泥で固定した。泥では滑りやすいが、実は、この滑ることがねらいなのである。この知恵は、地震や台風への対応である。

東大寺の模型

東大寺大仏殿に展示される模型。

創建当時にそびえていた東大寺七重塔もディスプレイされていますね。

東大寺大仏の光背

大仏様の後ろに回り、巨大な光背を仰ぎ見ます。

地震によって建物が一方に傾くと、傾いた方の瓦が滑り落ちます。そうすると、今度は反対側が重くなって同じように傾き、もう一方の瓦も滑り落ちます。こうして屋根の軽くなった建物は押しつぶされることがない。泥で瓦を固定する日本の建築様式が大仏殿を支えているのかもしれません。

火事で焼失することはあっても、地震や台風では倒壊しない東大寺大仏殿。その原因の一端を垣間見るような気が致します。

東大寺大仏殿と花

さらに時は下り、戦国時代の永禄10年(1567)に三好・松永の乱によって、東大寺大仏殿はまたもや焼失の憂き目を見ます。

この時には思うように再建事業がはかどらず、大仏の仏頭を銅板で覆うだけの簡単な修理にとどまります。江戸時代の貞享元年(1684)になり、ようやく公慶上人の勧進で再び東大寺復興事業がスタートします。元禄6(1693)年、公慶が将軍徳川綱吉とその母桂昌院に謁見したことをきっかけとして、東大寺復興は江戸幕府主導の国家的大事業となっていきます。

桂昌院ゆかりの今宮神社(京都)にもお詣りして来ましたが、彼女は東大寺復興にも多大な功績を残していたのですね。

将軍家の協力を得ながらも、資金不足は解消せず、大仏殿の規模は鎌倉時代より大幅に縮小されることになります。桁行11間あったものが、財政的な都合により7間になりました。しかしながら、奥行は創建当時と変わらず、世界屈指の木造建築物であることに変わりはありません。

江戸時代の東大寺大仏殿

江戸時代の東大寺大仏殿。

この模型こそが、現在の大仏殿そのものでもあります。

少々小ぶりにはなりましたが、ワールドワイドに感動を呼び起こす建築物として、今もなお数多くの観光客を集めています。

東大寺大仏

東大寺の大仏として知られる毘盧遮那仏

長い歴史の中で、東大寺復興に力を尽くした数多くの人がいたことを忘れてはなりません。これからも日本はおろか、世界中の人々に感動を与える東大寺大仏殿であり続けてほしいと思います。

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