大和郡山盆梅展へ行って参りました。
今年で13回目を迎える盆梅展で、毎年2月上旬から3月上旬にかけて催されます。場所は郡山城跡の追手門・追手向櫓・多聞櫓で、実に約120鉢の盆梅を満喫することができます。
大和郡山盆梅展。
盆梅展の開催時間は午前9時30分から午後4時30分(土日祝日は午後5時)までです。会場内には無料駐車場も用意され、入場料は450円(小学生以下無料)となっています。
私が訪れた3月2日の開花状況ですが、ラッキーなことにほぼ満開で見頃を迎えていました。屋外で見られる郡山城跡しだれ梅林は7分咲きといったところでしょうか。
追手門を抜けて盆梅展会場へアクセス
お城の櫓の中で開かれる盆梅展。
通常は中に入ることのできない櫓ですが、盆梅展期間中には開放されます。このことだけでも城好きには見逃せないチャンスではないでしょうか。豊臣秀吉の弟に当たる豊臣秀長が、1585年に入城したお城が大和郡山城です。近鉄郡山駅のすぐ近くに佇む城跡で、周辺には郡山高校や永慶寺などがあります。
大和郡山城跡の追手門(梅林門)。
現在の追手門は、秀長築城当時に近い形で昭和58年に復元されています。
そもそも追手門(おうてもん)とは、城の表門である大手門のことを意味しています。敵の正面に攻めかかる軍勢のことを大手、追手(おうて)と言ったりしますが、その反対が搦手(からめて)です。城の裏門が搦手(からめて)であるのに対し、表門は追手になります。
この追手門の南側に、盆梅展の会場にもなっている追手向櫓(おおてむかいやぐら)があります。櫓には鉄砲や矢を発射するための狭間(さま)と呼ばれる小窓が設けられており、その狙う先には追手門が位置しています。
盆梅展案内と城址会館(市民会館)。
追手門を抜けて曲輪のような場所を通って上方へと出ます。そこには久護門跡、池などのある開けた広場があり、明治の館・城址会館が目に飛び込んで参りました。城址会館は昭和45年に奈良県立図書館(明治41年築)を譲り受けて、郡山城跡に移築された建物です。
歴史を感じさせる建築物で、平成9年に奈良県の指定有形文化財になっています。
盆梅展会場の入口付近。
城址会館から右手に目をやると、大和郡山盆梅展の拝観受付がありました。ここで入場料の450円を支払ってチケットを購入します。
盆梅展会場の入口にはスリッパが用意されていました。
ここで靴を脱いで、据え置きのナイロン袋の中に入れます。ちょっと邪魔ではありますが、自分の靴を手に持ちながらの盆梅展観賞となります。
盆梅の名前「信玄」「春の息吹」「順慶」
さぁ、いよいよ盆梅展の会場へ足を踏み入れます。
郡山城跡のお城まつりで満開の桜を楽しんだことはあったのですが、盆梅展は今回が初めてです。思えば古代人たちは桜の花よりも梅を好んだと言います。桜よりも一足早く開花する梅に、待ち侘びた春の喜びを感じたのではないでしょうか。
会場の入り口近くで出迎える盆梅。
複雑に曲がりくねった会場の通路が、古木の幹や枝振りを思わせます。金屏風を背にして展示されているところがまたイイですね。
入口付近に展示される信玄。
盆梅にはそれぞれ名前が付けられており、各々の盆梅への愛着をうかがわせます。大和郡山市内の愛好家が丹精込めて育て上げた約120鉢が並びます。一つ一つの盆梅のネーミングにも注目ですね。なぜそのように命名されたのか、その由来は何なのか、納得の着眼点に共感しながら見て回るのも見所の一つです。
信玄の解説。
「風林火山」の旗印のもと、戦国最強と呼ばれる騎馬軍団を率いた甲斐の虎、武田信玄。上杉謙信との川中島の戦いはあまりにも有名である。
父を追放し、我が子を死なせるという、肉親の悲劇的な関係に悩みながら戦国時代を力強く生きた信玄の姿が偲ばれる。
その幹の根元は異様に太く、信玄ならではの力強さを感じさせる梅です。
「信玄」が見事に開花しています!
武田信玄の質実剛健な雰囲気をその身に纏います。
「信玄」の全体像はこんな感じです。
鉢の向かって右寄りから生え出ているのが分かりますね。ちょっとアンバランスな感じもしますが、下方の太い幹のせいか、そんなことを感じさせない安定感があります。
主役の梅を引き立てる照明器具が備え付けられます。
見せ方が大事なのは言うまでもありませんが、明るさや角度の微調整が施されているのでしょう。
こちらは通路の突き当りに展示されていた「春の息吹」。
濃いピンク色をしたとても印象に残る梅花です。花びらの真ん中から伸びる白いものは雄蕊なのでしょうか?白にピンクに黄色と、とても華やかな感じです。
「春の息吹」の向こうにも盆梅が並んでいます。
ここから第二会場といった感じの部屋へと入って行きます。大和郡山盆梅展は通路を隔てて幾つかのセクションに分かれており、そこがまた小気味いいアクセントを生んでいます。
なんかこう、線香花火のような感じもします(笑)
盆栽はおろか、梅の花に関しても門外漢な私ですが、肩の力を抜いて理屈抜きに楽しめるところがいいですね。
この他にも、追手向櫓の一番奥には筒井順慶に因む「順慶」という盆梅も飾られていました。
織田信長や豊臣秀吉に従いながら、郡山城を建設した筒井順慶。35歳で亡くなった順慶ですが、既に若い頃には得度していたと伝えられます。僧侶として、白い頭巾を被りながら戦場を駆け巡っていたかもしれない順慶の雄姿を偲ばせる盆梅です。
一足早く春を先取りする大和郡山盆梅展。今年は3月12日まで開催されていますので、是非皆さんも足を運んでみて下さい。
盆梅展会場の無料駐車場
大和郡山盆梅展には無料駐車場が用意されています。
駐車台数はあまり多くありませんので、基本的には公共交通機関でのアクセスをおすすめ致します。とは言え、今回はマイカーで大和郡山城跡に向かいましたのでここにご報告申し上げます。
追手門(梅花門)の手前に、盆梅展駐車場の案内板が出ていました。
追手門手前の石垣下にも数台車が停まっていましたが、門をくぐった上方にも駐車場が用意されています。
城址会館の手前左側に駐車スペースが設けられているようです。
駐車場へ至るルートが親切に案内されていました。
この写真の左手前に、盆梅展会場の駐車場があります。
目印はやはり、行く手に見える城址会館でしょうね。
郡山の城下町周辺は道も狭く、なかなかこれといった広い駐車場が見当たりません。古い町並みの続く城下町では、盆梅展と並行して「大和な雛まつり」が開催されていました。お雛様展示場所を示す「てくてくMAP」を片手に歩きましたが、車の対向が困難な場所も多く見られます。
駐車場が悩みの種の一つですが、こうやって駐車スペースが開放されるのはありがたいことです。
幹の空洞や枝振りに感動する梅の古木
盆梅にも盆栽と同じような一つの世界観が存在するのではないでしょうか。
小さな空間の中に作者の思いが込められている。いかにも日本的なアートの一つと言えるでしょう。
盆梅展を見学する前に、柳沢吉保を祀る柳沢神社に参拝しました。
柳沢神社の背後には眺望の開けた天守台もあり、郡山城跡の散策コースでは欠かすことのできないエリアです。天守台の下には地蔵石仏を埋め込んだというさかさ地蔵があったようなのですが、残念ながら今回は見逃してしまいました。次回は忘れずに見ておこうと思います。
床の間に飾られる盆梅。
掛軸を背に、実にいい雰囲気が醸されます。
縦横無尽に伸びる梅の枝振り。
所々に開花を待つ蕾も見られ、生長を続ける梅のエネルギーを感じさせます。
順路に従い観賞していると、途中で屋外へ出る場所もありました。
外では盆梅の販売も行われているようです。
盆梅展を見終った見学者たちが休憩用ベンチに腰掛けて、お茶をすすっておられる様子が見えます。
屋外ポイントを外側から見ると、こんな感じです。
手前には面白い形をした黄色い梅が咲いていました。
一直線に伸びる盆梅展見学ルート。
レッドカーペットが敷かれ、その両脇にずらりと盆梅が並びます。このポイントに差し掛かった時、入場客の間から歓声が湧き起ります。視覚効果を狙った見事な演出ですね。
幹の空洞!
それにしても、なぜにまたこういう空洞が生まれるのでしょうか。一見すると、古木ゆえの樹勢の衰えのようにも思われるのですが、どっこい元気に花を咲かせています。どことなく日本人好みのわびさびにも通じていますね。
おや?これは蜘蛛の巣でしょうか。
白い糸のようなものが見られます。
まるで猿の腰掛け(笑)
小さな空間の中でも、様々な表情を見せる盆梅に目を奪われます。
こちらは八重咲きの梅ですね。
一輪一輪は小さな花ですが、近寄ってみるとボリュームを感じさせる咲きっぷりです。
閉じた蕾(つぼみ)。
しっかりと閉じていますね。
その中にギュッとエネルギーを閉じ込め、今か今かと開花のタイミングを待ちます。
頭上注意の案内書き。
櫓の中とあって、割と低い位置に柱が横渡しされています。背の高い人は通行に注意が必要です。
梅の花弁が散っていますね。
区画のために設けられた竹と梅のツーショットです。
うん?
これがどうやら狭間(さま)のようです。
城壁や櫓に設けられた狭間。外の様子をうかがったり、矢・石・弾丸を放つための窓なわけですが、盆梅と狭間を一枚の構図に収められるのも、ここ大和郡山城跡ぐらいかもしれません。
内側が広く、外側が狭くなっているのが分かります。
敵が攻めてくる外側の面積は狭い方がいいですからね。狭間は合理的な造りになっているようです。
豊臣秀長にちなんだ「大納言」。
追手向櫓の一番奥の展示エリアに入ると、その一番手前にディスプレイされていました。階上へと続く階段も見られます。
大納言の解説。
郡山城主となった豊臣秀吉の弟、豊臣秀長は天正15(1587)年8月に大納言に叙せられた。世に「大和大納言」といわれる秀長は性格が温厚で多くの武士達の間に立って、よく兄を補佐したといわれている。
ずっしりと落ち着いた幹がうねりながら横にのび、側にいる者を見守っているかのような姿は、その葬儀に「野も山も崩れんばかり」の人が集まったと言われる秀長の姿を彷彿とさせる。
大和郡山城を語る上において豊臣秀長の存在は欠かせません。
天正13年(1585)に入城した秀長は、紀伊や和泉、大和の三カ国百万石の太守・大納言として城の拡張工事に着手しました。その壮大な高石垣は荒々しい野面積みで知られます。
秀長はまた、城下町の繁栄のために奈良や堺の商人達を郡山に呼び寄せ、地租免除や商売上の特権を与え、箱本制度という自治組織(箱本13町制度)を作りました。
郡山の歴史にその名を残す豊臣秀長への愛着が見事に表現された盆梅です。
ボランティアガイドの方でしょうか、赤い法被を着て案内なさっていました。
私が訪れた時間帯には団体客の見学もあり、櫓内はとても賑やかでした。
ふっくらと温かみを感じさせる八重咲きの梅。
包み込むような優しさ。
連なる紅梅と、せり上がる古木の幹。
ローアングルから撮ると、また一味違った趣になりますね。
こちらの白梅の幹にも空洞が見られます。
貫通してしまって(笑)、向こう側の金屏風が透けて見えます。
うん?
これは紐ですね。
細い紐でしっかりと幹が固定されているようです。
これは剪定した跡?
花にばかり目がいきがちですが、その花を咲かせる過程にある幹や枝に注目してみるのも面白いですね。
照明の光が差し込み、まるで舞台上に立っているかのように映ります。
幹皮が剥けて、その中が露わになっていますね。ねじれている様子がよく分かります。
格好いい!
思わず心の中で呟きます。
古いものにこそ価値がある。素直にそう思わせてくれる古木です。樹齢何年になるのでしょうか、風雪に耐えながら幾歳月を経てきた梅の木に脱帽致します。
外国人旅行者が増え続ける我が国日本ですが、こういった古いものに興味を抱くのはやはり欧州の方々なのでしょうか。歴史の浅い米国よりも、ヨーロッパ人の琴線に触れる何かがあるような気が致します。
追手門を守護した追手向櫓
大和郡山盆梅展の出口は追手向櫓の手前にあります。
追手向櫓へと通じる廊下の脇に出口が設けられていました。
大和郡山盆梅展の出口。
追手向櫓の手前に階段が付けられています。この追手向櫓は、かつて追手門を守る役割を果たしていたそうです。
追手向櫓(おおてむかいやぐら)の案内板。
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639~1723年)は大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)と呼ばれていました。追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。
櫓は明治6年に取り払われましたが、記録によると、下重(一階)は4間2尺に5間、上重(二階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)とは、なるほど言い得て妙ですね。櫓のある場所は大手門(追手門)の先で、さらに郡山城域内の北東方向に位置しています。
この櫓のお陰で郡山城が守られていたのかもしれませんね。
城の侵入者を防ぐために、表門の先に建てられた櫓を目の前にします。
こちらは柳沢神社近くの道標。
盆梅展会場へは柳沢神社を経由しても行くことができます。
郡山城跡の濠。
粗っぽい野面積みの石垣が目に飛び込んできました。
柳沢神社から歴史の宝庫・柳沢文庫を右手に見ながら盆梅展会場を目指します。
こちらは追手門(梅林門)。
大和郡山城跡の表玄関ですが、その両脇には梅が飾られていました。
盆梅展の見学を終え、外に出ます。
外にはベンチが置かれており、無料でお茶を飲むことができます。櫓の中に収まり切らなかったのでしょうか、屋外にも盆梅が展示されていました。
いや~、圧巻の盆梅展でした。
郡山城跡は桜ばかりではないのですね、そのことを改めて知らされました。
盆梅展期間中には、郡山城跡周辺において様々なサービスを受けることもできます。
盆梅展入場券の半券提示で、1枚につき1人箱本館「紺屋」の入館が無料になります。やまと郡山城ホール内レストランのカステッロでも、半券提示によりドリンクサービスがあったりと、なかなか嬉しい企画が用意されています。
雛人形めぐりが楽しめる「大和な雛まつり」に寄り道することもできます。
梅の開花状況を伝える新聞紙面によれば、奈良公園の片岡梅林や菅原の里盆梅展も満開を迎えているようです。奈良県の三大梅林と呼ばれる月ヶ瀬、広橋、賀名生の梅林はこれから見頃を迎えます。
早春の奈良を満喫する大和郡山盆梅展。あなたも是非一度足を運んでみませんか。