本能寺の変で絶命した織田信長。
信長亡き後、明智光秀と豊臣秀吉が戦ったのが山崎合戦(やまざきかっせん)です。「天下分け目の天王山」と称される山崎の戦いですが、実際の主戦場は天王山麓の湿地帯だったようです。勝竜寺城の南西隅に「光秀出陣テラス」があり、山崎合戦の案内板が掲げられていました。
光秀出陣テラスから見下ろす南門。
お堀には橋が架かり、敵兵の侵入経路を真横から見張ります。北門の桝形虎口も同じような構造ですが、横矢掛かりとして機能していたのでしょう。
高く築かれた西辺土塁!山崎合戦の主戦場は小泉川周辺
山崎の戦いで勝竜寺城に退却した明智光秀。
光秀にとってキーになる勝竜寺城は、娘の明智玉(細川ガラシャ)が輿入れした城でもあります。現在は勝竜寺城公園として整備され、高く築かれた西辺の土塁がそのまま残っていました。
西辺土塁上のベンチ。
お城の敷地内では、最も高い位置にあります。公園内では「光秀出陣テラス」と案内されていました。この辺りに天主が建ち、周囲の街道に睨みを利かせていた可能性があります。
勝竜寺城公園の石標。
築地塀には狭間も見られますね。
細川忠興・玉(ガラシャ)像。
信長の意向により、明智玉は細川藤孝(幽斎)の嫡子・忠興の元へ嫁入りしています。
盛り上がる西辺土塁。
お城の攻めと守り・・・攻守において様々な工夫が見られる城内は、城郭見学の醍醐味です。
光秀出陣テラスに掲げられた案内板。
天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同6月13日に山崎合戦で羽柴秀吉と戦います。主戦場は山崎から勝竜寺城の間一帯で、天王山を奪い合う戦いではありませんでした。一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、これについては、恵解山古墳(いげのやまこふん;長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の二説があります。戦いに敗れた光秀は、いったん勝竜寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の坂本城(大津市)を目指したようです。しかし、途中の山科・上醍醐(かみだいご)付近で落武者狩りに遭い命を落としたといいます。
寛文5年(1665)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれています。左の図はこの様子を地形分類した明治時代の地図に書き表したものです。絵図によれば、光秀の本陣は恵解山古墳付近に描かれ、境野1号墳付近は津田信春の陣としています。また、天王山上に陣を置いておらず、少なくともこの絵図の作者は、主戦場を小泉川周辺と認識していたことが分かります。
小泉川周辺に密集する陣形図。
やはり明智光秀は、恵解山古墳付近に本陣を置いたのでしょうか。改めて陣営を見てみると、兵数で勝るのは光秀側のようですが・・・実は秀吉陣営の背後に、まだ多くの軍勢が居たようです。数で勝る秀吉軍。追い詰められた光秀は、敗走して勝竜寺城へ逃げ込むことになります。
勝竜寺城でワンクッションを置き、大津の坂本城を目指した明智光秀。
伏見区小栗栖の竹藪で命を落としたと伝わる光秀ですが、現在その場所は明智藪として観光スポットになっています。
戦国乱世を駆けた4人の城。
細川藤孝親子と明智光秀親子が漫画風に描かれていました。
恵解山古墳の墳丘上から望む天王山。
山崎の合戦イコール天王山という先入観がありますよね。史実に照らせば、戦いの場は小泉川周辺エリアだったようです。