貝吹山城跡!豪族越智氏の家城

中世の豪族・越智氏の城跡を訪れました。

越智氏ゆかりの貝吹山城跡は、ちょっとした登山が楽しめます。標高200m余りの山ですが、終盤はかなりの急登が続き息が上がりました。

貝吹山城跡

頂上に辿り着くと、石標が建っていました。

今回は与楽カンジョ古墳の前に車を停め、カンジョ古墳を見学した後に貝吹山城跡を目指しました。片道30分弱の登山だったでしょうか。下山は寺崎白壁塚古墳の方へ下りて行きました。

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畝傍山を望む貝吹山山頂!越智本城を守る矢倉

貝吹山は元来、越智本城を守る櫓(やぐら)だったようです。

おそらく敵情の視察などにも使われていたのでしょう。法螺貝を吹いて危急を知らせる役割も担っていました。貝吹の名前の由来は、ホラ貝の合図に因んでいます。

貝吹山城跡の風景

貝吹山山頂からの眺望。

割と開けた視界です。橿原市をはじめ、鳥屋南西、飛鳥、葛城地方を遠望します。

貝吹山城跡から望む畝傍山

畝傍山も近くに見えます。

麓の市街地を除けば、中世から変わらない眺望なのでしょう。

貝吹山城跡登山道のタケノコ

登山道には、たくさんのタケノコが生えていました!

おそらくこの竹藪も、防御の役割を担っていたのではないでしょうか。

貝吹山城跡を指し示す道標。

与楽カンジョ古墳の右手前にありました。

案内に従い歩いて行くと、登山口とおぼしき場所に出ます。

どうやらここから登って行くようです。

すぐ左手には与楽カンジョ古墳の墳丘が見えます。

古墳周辺が整備され、随分綺麗になりましたね。

どんどん登って行きます。

地道ですので路肩には注意しましょう。

竹藪の中へと入って行きます。

いよいよそれらしき雰囲気が出てきました。

フェンスに掲げられた案内表示。

道中にはこのような案内が数多くありました。初めて向かう人でも迷うことはないでしょう。案内表示の無い所もありますが、木に赤いテープが巻かれており、テープに導かれるように進んで行けば問題ありません。

登山の序盤は十分に光も届いています。

まだまだ心細くはありません。

ニョキッと地面から顔を出す筍。

つまずかないように歩を進めて参りましょう。

ルート上のあちこちで春の息吹を感じました。

この時期ならではのお出迎えですね。

竹のアーチもありました。

またまた便利なご案内。

間違っていないことを再確認します。

どんどん先を急ぎます。

貝吹山城跡は登山靴で行くのがいいと思います。足首をしっかり保護してくれる靴の方が登りやすいと思います。前日に雨が降っていたせいか、下山後に靴裏を見ると泥がこびり付いていました。しっかり水洗いし、歯ブラシでこそげ落としておきました。その後の陰干しもお忘れなく。

猿の腰掛け? あるいはキノコでしょうか。

自然を感じながらの登山です。

終盤は傾斜もきつくなり、ロープが張られている箇所もありました。ロープを持って体を引き上げ、山頂を目指します。

あっ、いよいよゴールですね。

あのこんもりしている所が山頂でしょうか。

どうやらそのようです。

「貝吹山城跡」と刻む石標が建っていました。

貝吹山と言うと、私はいつもパワーストーンの益田岩船を思い出します。貝吹山に連なる石船(いわふね)山の頂上近くにある巨岩ですが、ここからもそう遠くない場所に横たわっています。

貝吹山の頂上に到着。

越智氏が築いた山城を肌で感じ、中世に想いを馳せます。

【貝吹山城跡】

ここに砦が築かれたのは、1185(文治元年)~1583年の398年間

貝吹山は標高210.3mで、高取町与楽・寺崎と橿原市との境にある越智氏が築いた山城跡や古墳が点在する山である。頂上に築かれた主郭を中心に四方の尾根上に諸郭が築かれ連郭をなしている麓の越智集落おやしきに居館と山城あり尾根づたいに連絡していた。

貝吹山は元々越智本城を守る「矢倉代」で、本城の北に点在する小山、坊城、鳥屋、池尻、奥田などの家城と呼応し本城や高取、曽根の城に法螺貝を吹き危急を知らせる任務を帯びていた。

それが天文の頃(1522~55)になると、居館と地を結び防備施設も強化された。そして高取城が詰の城となり、越智氏は筒井や松永久秀勢に城が奪われると必ず高取城に拠点を移し体勢を整え攻防を繰り返したが、天正11年(1583)越智玄蕃家秀(22代)殺され貝吹山城落城。

立引二向柏(たてびきにむかいかしわ)
大和国越智氏家紋

山並みが連なります。

高取町に越智氏の菩提寺・光雲寺があります。貝吹山周辺には、越智氏の息遣いがあちらこちらに感じられます。

山頂には木製ベンチも置かれていました。

少し汗をかいたこともあり、腰を下ろして一服です。

【越智城】

中世豪族の屋敷の構えは防御を主につくられている。周囲に濠を巡らせ土塁を築き、その上に竹藪をつくり、屋敷を外部から隠している。普通小さな山の上か、山麓のしかもその懐に抱えられるような地形の所が選ばれた。これを「家城」と呼んだ。

越智党の一員としての豪族は大和の各地に家城を構えていた。小山殿(香具山の南西)、玉手殿・米田殿(以上現御所市)、坊城殿・鳥屋敷(現橿原市)の館はみな家城であった。

越智党内衆の家城(居館)は、現在の高取町・橿原市・御所市に広がっている。そしてその中心となるのが惣領家の館、貝吹山を中心とする「越智本城」である。ここは「越智岡」と呼ばれる丘陵中で、東西に細長く延びる谷間の平地である。

初めて登った貝吹山城跡。

麓にはカンジョ古墳の他にも、与楽鑵子塚や白壁塚古墳があります。運よく今回は、調査中の古墳にも出会いました。自然に満ちた場所を歩きながら、城跡見学や古墳探索が楽しめます。

寺社参拝には無い体験が出来るのも、奈良観光の醍醐味ではないでしょうか。

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