背後から敵を討つ。
そんな役目を担っていた櫓なのでしょう。
そもそも櫓(やぐら)は、矢などの武器を収める倉庫を意味していました。矢を射る発射台でもあり、城を守る砦として機能していました。大和郡山城跡の追手向櫓(おおてむかいやぐら)は、追手門の真ん前にあります。
追手門越しに城内から見る追手向櫓。
かつては「大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)」と呼ばれていたようです。
大和郡山城の北東部、表鬼門にある櫓です。丑と寅の間~艮(うしとら)方向にある角櫓ということですね。“大手先”とは、追手門(大手門)の先を意味するのでしょう。
昭和62年に復元された追手向櫓!追手門を守護
天守台からの景色がいい大和郡山城跡。
展望台からは薬師寺東塔・西塔や若草山も望めます。
お城の表玄関に当たるのが追手門(梅林門)です。重厚な造りの追手門の手前には、二層の櫓が組まれています。
追手門をくぐり抜け、内側から追手向櫓に回り込みました。
ここから侵入して来る敵を迎え撃ったのでしょう。
大和郡山城跡の追手門(梅林門)。
立派な石垣も残っていました。小さな石を巧みに使っていますね。石垣の間に隙間も多く見られますが、全体的にバランスが取れています。野面積みの遺構ですね。
追手向櫓の案内札。
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639~1723)は大手先艮角櫓(おおてさきうしとらすみやぐら)と呼ばれていました。
追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724)のことです。櫓は明治6年に取り払われましたが、記録によると、下重(1階)は4間2尺に5間、上重(2階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
昭和62年3月吉日 大和郡山市教育委員会
天守台からの眺め。
堀の外側には旧奈良県立図書館(城址会館)があります。2022年にオープンしたばかりの番屋カフェも見えていますね。
城内から見た追手門。
ここを駆け上がって来る敵兵を想像してみます。一刻も早く本丸へ、その思いとは裏腹に守りを固める軍勢。
城内から見る追手向櫓。
大和郡山城跡で催された盆梅展を以前に見に行きましたが、追手向櫓も会場になっていたことを思い出します。
いかにお城を守るか。城をめぐる攻防は、その構造や位置付けが結果を大きく左右します。知恵を絞りながら色んな仕掛けが考えられました。城好きならずとも、興味の尽きないところだと思います。