勝竜寺城の転用石

京都府長岡京市の勝竜寺城公園。

長岡天満宮にも程近く、周辺には恵解山古墳や神足神社などの名所があります。勝竜寺城は細川ガラシャが新婚時代を過ごした場所です。また明智光秀が山崎の合戦で退却したお城でもあり、歴史ファン必見の観光スポットとなっています。

勝竜寺城の転用石

勝竜寺城の転用石。

城の石垣を組み上げる際、石材不足を補った石造物です。北門の枡形虎口に集められていました。

勝竜寺城土塁跡の横矢掛かり
神足神社の手前に、勝竜寺城の土塁が復元されていました。 築城の際、最も重要と言われる虎口(こぐち)を体感することができます。巧みなサイド攻撃は、守りの要と言ってもいいでしょう。 横矢掛かりの虎口。 空堀の底から土塁の頂部までは6mを超えます...

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勝竜寺城を守った五輪塔や石仏

織豊期(しょくほうき)から江戸時代初期にかけて普及した枡形虎口。

城の出入口に当たり、防御と反撃のために設けられた場所です。主郭から張り出す格好で、外枡形虎口が構築されていました。北門にある虎口ですが、合戦に敗れた明智光秀はここから脱出して落ち延びたと伝わります。

勝竜寺城

勝竜寺城公園の入口。

勝竜寺城は寛永10年(1633)に廃城となりました。

それ以降、長きに渡って人々の記憶から遠ざかっていましたが、平成4年度に晴れて勝竜寺城公園としてオープンしました。小ぢんまりした史跡公園ですが、管理棟2階には歴史ミュージアムもあり、明智家や細川家の歴史を学ぶことができます。

勝竜寺城の北東隅櫓

勝竜寺城の北東隅櫓。

石落しの機能も付いていたようです。

お城の土台である礎に注目です。全ての基礎が石垣ではありませんね。濠に接している石垣を腰巻石垣と言います。その上には緑の土塁が築かれ、さらにその上を鉢巻石垣が巡ります。

勝竜寺城が築かれた時代は、まだ石垣完備の城は珍しかったようです。石材の供給体制が整っていなかったんですね。代理となる石材を探すに当たり、身近な石造物が転用されました。

勝竜寺城北門の礎石

勝竜寺城北門の礎石。

下部の石垣は当時のまま残されているようです。正方形の一石五輪塔も見られます。勝竜寺城の石垣は野面積みですね。

勝竜寺城の転用石

転用石が一堂に会します。

石仏も数多くあり、大日如来や地蔵菩薩が転用されていたことが分かります。そう言えば、大和郡山城の転用石もお地蔵さんでしたね。

勝竜寺城の石造物

勝龍寺城の石造物が案内されていました。

勝龍寺城からは石垣などに転用された、信仰に関連する石造物が数多く見つかっています。このような例は他の城にも見られ、石材不足を補うため、または城を守護するためといわれています。出土した石造物は五輪塔や一石五輪塔、宝篋印塔、層塔(そうとう)、板碑(いたび)、石仏などがあります。石仏の大半は大日如来とみられ、地蔵菩薩も確認されています。また、一石五輪塔や板碑には年号を刻んだものがあり、古いものでは大永2年(1522)、新しいものでは元禄12年(1569)のものがあります。

勝竜寺城の転用石

お城を築くのも大変な作業です。

寄せ集められた石造物を見るにつけ、当時の人々の労苦が偲ばれます。

勝竜寺城の転用石

路傍の石仏も集められたことでしょう。

おや?ここにあったお地蔵さん、どこへいっちゃったの?そんな会話もあったかもしれません。

勝竜寺城の転用石

かの明智光秀は、最期の夜を勝竜寺城で過ごし、夜中に北門から脱出したと伝わります。

坂本城へ向かう途上、伏見小栗栖の藪で落ち武者狩りに遭いました。今も光秀の最期に関しては、諸説紛々としており史実は明らかではありません。

勝竜寺城の転用石

謎のベールに包まれた明智光秀の最期。

ただ、この北門から脱出したことだけは確かでしょう。

勝竜寺城公園

年号入りの石造物は貴重ですね。

より確かな史料として眼前に迫ります。

明智光秀が最期の夜を過ごした勝竜寺城は、細川幽斎立身出世の城、細川ガラシャお輿入れの城とも言われます。

歴史ミュージアムの入館料は無料です。さらに勝竜寺城公園の駐車場も無料です。近世城郭の原点が学べる場所ですから、城郭ファン必見と言えるでしょう。

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