大和郡山市の額田部北町に、推古神社というお社が鎮座します。
推古神社という名前の通り、聖徳太子の時代に活躍した女帝の推古天皇が祀られています。
推古神社の鳥居。
額田部という地名は古代の額田部郷を表し、大和川沿いの低湿地帯に当たります。推古神社の近くにある飽波神社の地名由来でも触れましたが、昔から水害の絶えないエリアだったとされます。
推古神社古墳の上に祀られる本殿
推古神社を囲む社叢は「推古神社古墳」とされます。
古墳時代後期の前方後円墳で、埴輪片が採集されているようです。奈良県内では古墳と神社が同居しているのをよく見かけますが、推古神社もその内の一つです。
推古神社の拝殿。
推古天皇は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)とも呼ばれ、父親は仏教公伝で知られる欽明天皇に当たります。
額田部の地名が推古天皇と重なります。
古代の額田郷は、河内や伊勢など十数カ国に分布していたようで、額田部と同じように低湿地帯ではなかったかと思われます。大和郡山市の額田部も古来より、「額田、嫁にやっても荷はやるな」と言い伝えられていました。水害で荷が流されることも度々だったのではないでしょうか。
額安寺から推古神社へ向かう途中に朝顔の花が咲いていました。
丁字路の向こう側に車が停まっていますが、あの辺りが推古神社の鳥居前になります。
丁字路に出た場所に掲げられていました。
大和郡山市の散策ルートになっているようですね。大和郡山市名産の金魚が案内する看板には、「郡遊回廊 里の道WALK4」と書かれています。郡遊の「郡」は、大和郡山市の「郡」に掛けられていることは一目瞭然です。
推古神社の拝殿向って左側に建つ征露記念碑。
露西亜との戦争の際に建てられたのでしょうか。
ラッパのマークの正露丸が軍備薬だったことは有名な話ですが、「正露丸」も元来、「征露丸」と書かれていた歴史があります。推古天皇と征露には、一体どんなつながりがあるのか気になるところです。
推古神社から西へ200mほどの場所に佇む額安寺。
聖徳太子の学びの場として知られる熊凝精舎跡に建ちます。
鳥居の額束(がくづか)に、推古神社の名前が見えます。
推古神社拝殿奥にある本殿は、前方後円墳の推古神社古墳の上に建てられています。さすがに奈良は古墳が多く、意外な場所に古墳が存在しています。
奈良県内の寺社でよく見られる石灯籠のデザイン。
鹿と雲が描かれているものと思われます。
推古神社へのアクセスは、近鉄橿原線平端駅から徒歩15分となっています。