今木権現堂山門の木造金剛力士像。
大淀町指定有形文化財の二体にお会いして来ました。
金剛力士像のことをよく仁王像と言いますが、阿形と吽形の二体で一括りです。向かって右側が阿形で、左側が吽形。この並びもほぼ一定のようです。泉徳寺(今木権現堂)でも、山門の両脇で二体が睨みを効かせていました。
泉徳寺仁王門の金剛力士像。
躍動感に満ちあふれた立ち姿!
さすがに邪(よこしま)な気持ちでは、この門をくぐることは出来ません。
泉州堺より天狗が運んだ金剛力士像
泉徳寺は約1300年前に、修験道の開祖・役行者が建立したお寺です。
古くから全国の修験者が泉徳寺に集い、金剛力士像に旅の安全を祈願したと伝えられます。
21世紀の今となっては旅もレジャーの一つに過ぎませんが、当時の旅は危険を冒した命がけのものであったはずです。旅行を意味する travel(トラベル)は、trouble(トラブル)に由来するとも聞いたことがあります。旅は苦しみの連続であり、ある種修行の場でもあったのでしょう。
旅に別れは付き物ですが、出立の際に馬の鼻を進行方向へ向けた「鼻向け」が「餞(はなむけ)」の語源にもなっています。二度と会えないかもしれない、そんな覚悟のようなものが昔の旅には感じられます。
泉徳寺仁王門。
延宝5年(1677年)の棟木が残っているようです。
山門の真ん中上に、何やら見えますね。
泉徳寺仁王門の天狗像。
真正面を向く山門上の天狗さん。
実はこの天狗が、二体の金剛力士像を両脇に抱えてここまで飛んで来たと言い伝えられます。今の大阪泉州の堺より飛来したといいますから、相当な距離になりますね。
阿形の金剛力士像。
天狗像の脇に収まるサイズではないと思うのですが、そこはそこ、脚色された伝説に乗っかるのも面白いのではないでしょうか。
仁王門の向かって右側に泉徳寺の駐車場があります。
右奥の建物は、泉徳寺の本堂です。
本堂内には、旧薬師堂に安置されていた薬師如来坐像(鎌倉時代)が移されているようです。補足情報ですが、駐車場の入口が大変狭いのでハンドルを切る際には注意が必要です。
泉徳寺仁王門へ続く石段。
深い緑に苔生した、歴史風情あふれる石段です。
「天狗山聖大権現」と刻む石灯籠。
灯籠の竿に「天狗山」と書かれていますが、かつてこの辺りのことを「てんぐ山」と称していたのでしょう。
石段下には「後醍醐天皇」の石標もありました。
後醍醐天皇は吉野神宮の御祭神でもあり、吉野山といえば南朝方の後醍醐天皇を思い出します。案内板にもありましたが、吉野山蔵王堂との深いつながりを感じさせますね。
こちらは吽形の金剛力士像。
口を真一文字に結び、右掌をこちらに向けます。おい、待て!と言わんばかりの迫力を感じます。
金剛力士像がメインですが、天狗像あっての仁王様です。
忘れてはなりませんね。
木造金剛力士像の案内板。
この金剛力士像については文禄4年(1595)一夜のうちに泉州堺の大寺より飛来したという伝説があるが、平成2年の改修により阿形像胎内の墨書銘文から「明暦二年 国見大和之 藤原重士作」と判明した。
時代 江戸時代初期(明暦2年;1656年)
法量 像高 200cm
台座高 23cm
(阿形・吽形像とも)力強く躍動感にあふれ、町内でも唯一の金剛力士像である。この仁王門をくぐって参道を登って行くと、山の中腹に権現堂と薬師堂がある。権現堂で毎年4月11日に権現祭という行事が行われるが、同じ日、吉野山蔵王堂で開かれる会式の仕方とよく似ているところから、吉野山蔵王堂と深いつながりがあると考えられる。
天狗によって運ばれた伝説が語られますが、明暦2年(1656)に造像された金剛力士像のようです。
仁王門の彫刻も見事です!
多くの修験者がここを訪れた際、仁王像と共にこの彫刻も目にしたことでしょう。
阿形仁王像の右腕。
筋骨隆々としています。手首を内側に向けることによって、よりその張り具合が伝わってきます!
吽形仁王像の眉毛。
かなり吊り上がっています。ほぼ垂直、と言ってもいいでしょう。
鍛えられた足。
このぐらいの ”筋(すじ)” を持った足でないと、長旅を耐え抜くことは困難だったのではないでしょうか。
移動手段を選択する余地など無かった時代です。歩いて歩いて、また歩いて・・・ひたすら歩いて目的地を目指したものと思われます。
仁王門をくぐると、幅の狭い石段が続いていました。
権現堂へと続く階段ですね。
奈良県地図を見れば一目瞭然ですが、南方に広がる吉野エリアは広大です。そんな吉野の中にあって、吉野山蔵王堂を除けば、金剛力士像はこちらの大淀町にしか伝わっていないようです。この日は大変貴重な金剛力士像を拝ませて頂きました。