大淀町比曽にある世尊寺にお参りして来ました。
用明天皇2年(587)、聖徳太子が創建したお寺と伝わります。聖徳太子御遺跡第七番にその名を連ね、かつての寺域である比曽寺跡は国の史跡にも指定されています。飛鳥時代には既に存在していたと伝えられます。飛鳥時代の寺は世尊寺を含めてわずか4つに過ぎず、法興寺(飛鳥寺)、四天王寺、法隆寺と共に「四大寺」と称されます。
世尊寺本堂。
かつての講堂跡に建つ、比較的新しい世尊寺の心臓部です。本堂内には、放光樟像(ほうこうしょうぞう)の別名を持つ御本尊の阿弥陀如来坐像が祀られています。奈良時代作の十一面観音菩薩立像も拝観することができます。平安時代には天皇の行幸もあったようで、御本尊前には十六菊花紋をあしらった幕が掛けられていました。
比曽寺跡で吉野路の微笑仏を拝む
本堂裏手には、芭蕉の句碑や聖徳太子お手植えの壇上桜が見られます。
生命力を感じさせる壇上桜を観賞していると、庭の手入れをなさっていたご住職からお声掛け頂きました。拝観のお願いをし、本堂前でしばらく待つことになります。一旦ご住職は庫裡の方へ引き返し、再び本堂内からお出ましになられました。
こちらは中門前に開花するタゴトノツキ(田毎の月)。
花の少ない冬の時期ではありましたが、かろうじて私を出迎えてくれました。
世尊寺の本尊・阿弥陀如来坐像(放光樟像)。
柔和な表情をなさっています。「吉野路の微笑仏」と親しまれているのがよく分かりますね。優しい撫で肩で、衣紋のラインも秀逸です。樟(くすのき)で造られた仏像のようで、その素材からも腐敗に強いことがうかがえます。全体的にやや黒く煤けた様子が気になりますが、ご住職によれば、昭和初期の火災によるものなんだそうです。
放光樟像の由来には興味深い話が伝わります。
欽明天皇14年(553)、茅渟海(ちぬのうみ;大阪湾)で光り輝く樟木の流木が見つかりました。天皇はその木で仏像を造らせたそうです。今、吉野寺(世尊寺)にあって光を放つ樟の仏像がこれである、と日本書紀に記されています。なお、この微笑仏は明治24年に国の重要美術品に指定されています。
史蹟比曽寺跡の解説文。
「日本書紀」に欽明天皇14年(553)、天皇が河内の海に流れ着いて放光の樟で造らせた仏像がこの寺に安置されたとあり、「日本霊異記」「聖徳太子伝暦」には、もう少し後に帰化人漢氏の一族や百済工に、この仏像を造らせたと書いてある。
寺跡から出土する古瓦によると、少なくとも飛鳥時代に堂塔が建てられ、その後東西両塔・金堂・講堂(現本堂の位置)を備えた薬師寺式の伽藍配置が完成したと思われる。
そして奈良時代には、吉野寺・比曽山寺と呼ばれ、右記の伝承を持つ仏像が安置されているのである。同時にこの時代には、有名な神叡 唐 道慈が住み、平安時代には清和天皇・宇多上皇や藤原道長もこの寺で礼仏するほど時勢は栄え、現光寺と呼ばれたが、その後衰え鎌倉時代に再建された東塔は、文禄3年(1597)秀吉によって伏見城に移され、さらに慶長6年(1601)家康が近江の円城寺(三井寺)に移建した。
同寺にある三重塔はそれである。
なお、江戸時代には、寺名を世尊寺と改めている。今、史蹟指定地には往時の同塔は残らないが、土壇・礎石古瓦によって、かつての寺院の規模を偲ぶことができる。
世尊寺が辿って来た変遷の歴史が案内されていました。
古来より同じ場所にあり続けながら、5度も名前を変えたお寺は世尊寺のみです。所在地が変わるという条件が加われば、他にもあるようなのですが、ずっとそこに居続けていながら寺名を5回も変更しているという点では、世尊寺以外には存在しません。
最初が吉野寺、そして比蘇山、現光寺、栗天奉寺(りってんほうじ)、世尊寺と続きます。吉野という地名の由来も、実はここ世尊寺に端を発しているとのことでした。
左甚五郎の猿とタゴトノツキ
世尊寺へのアクセス方法は車でした。
三輪から飛鳥を通って、国道169号線を経由して世尊寺へ向かいます。所要時間は全部で40分弱だったでしょうか。公共交通機関を利用するなら、近鉄六田駅から奈良交通のバスが出ているようなのですが、やはりマイカーで行く方が便利です。
世尊寺の駐車場。
山門と中門の間、参道を少し左に外れた所に無料駐車場がありました。
デマンド型乗合タクシーも発着しているようですね。
大淀町のマスコットキャラクターよどりちゃんが看板に描かれています。その名も「よどりタクシー」のようです(笑) 梨の妖精ですから、思わず食欲がそそられますね。
世尊寺山門。
ここから南北に長い世尊寺の境内へと入って行きます。
山門右手へ下って行くと、滑り台が設置された比曽川砂防公園があります。世尊寺の境内は、広大な史跡比曽寺跡にすっぽりと収まります。さらにその比曽寺跡の東西両脇に比曽川と西谷川が流れています。
山門上の蟇股のような場所に、何かが挟まれています!
実はコレ、左甚五郎作の猿なんだそうです。
肩の上に渡された横木の荷重に耐えていますね(笑) 右脚を突き出してバランスを取っているのでしょうか。
左甚五郎は江戸時代初期の名工として知られます。
名前の由来は左利きであったとか、腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたとか色々言われていますよね。とにかく建築関係においては伝説の人物です。そんな左甚五郎が、歴史の深い世尊寺にも作品を残していたとは・・・。
猿は縁起物として、各地の建築物にも見られます。魔去る、勝るなどにも通じ、魔除けの効果が期待されているのでしょう。山門と言えばお寺の玄関口です。そんな大切な場所に居るわけですから、何か意味深なものを感じます。
史跡比曽寺跡の石標。
吉野詣での古道沿いにある世尊寺。壷阪寺から世尊寺を経て、吉野山金峯山寺へと至る巡礼ルートに位置しています。約7,200坪もの広大な比曽寺跡は、昭和2年4月8日に国の史跡に指定されています。
山門を入って少し進むと、右手に鎮守社が祀られていました。
”お寺に神社” はよくある構図ですよね。
まずはこちらに手を合わせ、それから世尊寺にお参りするのがいいのではないでしょうか。創建時の世尊寺は薬師寺式伽藍配置だったようですが、薬師寺と休ヶ岡八幡宮の関係を思い出します。薬師寺参詣の前に、必ず手を合わせる場所が休ヶ岡八幡宮でしたよね。
中門前に開花するタゴトノツキ。
山茶花の一種なのでしょうか、満開とまではいきませんが白い花を咲かせていました。ご住職のお話によると、タゴトノツキ(田毎の月)は5つの蕾を葉の先に付けるようです。順番に一つずつ咲いていき、決して同時には開かないそうです。確かに一輪ずつしか咲いておらず、面白い習性を持つ花なんだなぁと興味が湧きました。
田毎の月と言えば、棚田に映る月の風景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。この花の名前の由来とも関係があるのかもしれませんね。
曹洞宗世尊寺と案内されていました。
五七桐の紋の右横には、曹洞宗の大本山・永平寺の竜胆紋も見られます。
世尊寺中門。
「霊鷲山(れいしゅうざん)」の山号が掲げられています。中門から本堂へと真っ直ぐに伸びる石畳のラインが美しいですね。ここから見るとそうでもないのですが、中門から本堂への距離はかなりあります。実はこのぽっかりと空いた空間に、かつての金堂があったそうです。
中門の柱に拝観案内が出ていました。
いわゆる拝観受付のような場所はなく、直接どなたかが常駐なさっている庫裡へ向かうようです。特に納経や御朱印の用は無かったので、そのまま本堂前へとお邪魔致しました。
再び中門前のタゴトノツキ。
ぷっくりと膨らむ蕾が愛らしいですね。今にも開花しようとしている蕾を含め、どうやら6つの蕾が付いているようです。ものによっては5つとは限らないのでしょう。でも、一つだけ開花するという法則は守られているようですよ。
聖徳太子孝養像を祀る太子堂&東塔跡・西塔跡
中門前の見所として、かつて世尊寺に聳えていた東塔跡・西塔跡があります。
塔が建っていたのですね。
東西両塔の礎石が、世尊寺が歩んできた歴史を如実に物語っています。
中門前に残された東塔跡。
当時のままの礎石を見て、一気にタイムトンネルを抜けたような錯覚に陥ります。薬師寺式伽藍配置で東西両塔を備えていた世尊寺。西塔は早くに焼失してしまいましたが、鎌倉末期に再建された東塔は今もなお、近江の三井寺にて見ることができます。
東塔跡の解説パネルがありました。
寺伝によると、聖徳太子が御父31代用明天皇のために建立され、その後、鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部によって知ることができます。
やがて文禄3年(1597年)豊臣秀吉によって伏見城に移されました。さらに4年後、慶長6年(1601年)徳川家康によって大津の三井寺に移建され、現在、国の重要文化財として残っています。
秀吉から家康へ、時代の流れに翻弄されながらも世尊寺東塔(三重塔)は生き続けます。
こちらが重文指定を受けている三井寺三重塔。
本堂内の片隅に飾られていました。
ご住職の許可を得て、額縁の中の写真を撮影させて頂きました。
こんなに立派な塔が世尊寺境内に建っていたことを思うと、感慨もひとしおです。
苔生した東塔跡の礎石。
面白い形の突起が見られますね。
どこか帆立貝式の古墳を思わせる形状です(笑)
西塔跡の礎石群。
西塔は推古天皇が夫のために建立したそうです。飛鳥時代の塔で、残念ながら戦乱のため焼失しています。今は13個の礎石だけが、苔生した状態で往時を偲ばせていました。
中門入って左手に佇む太子堂。
その手前には羅漢の石像が祀られています。
世尊寺の太子堂は、奈良県指定有形文化財の建造物です。横柱の端に取り付けられた木鼻が馬のようにも見えました。前脚が突き出たデザインで、やっぱりあれは馬だったのではないかと思います。木鼻には象が彫刻されることが多いのですが、もしや馬だとすると、聖徳太子の愛馬・黒駒が想像されますね。
太子堂(奈良県指定有形文化財)の案内板。
聖徳太子を御本尊として建立された堂で、右手に柄香炉を持った太子十六才の孝養像が安置されていた。建立年代については詳らかではないが、角屋の鬼瓦に享保7年 1722年 同9年 1724年の瓦銘がみえ、内部の虹梁絵様 蟇股等の細部洋式とも考えあわせて18世紀前期頃に建てられたと考えられる。なお、寛政8年 1796年 の修理札がありこれを裏付ける。
この世尊寺太子堂のように仏壇部を角屋として突出させる形式は、県内でもあまり例を見ないものであり興味深い建築と言える。
そのため平成元年3月10日 奈良県指定文化財となった 大淀町教育委員会
誠に残念ながら、今回の参拝では太子堂の中に入ることはできませんでした。
只今修理中のようで、本尊の聖徳太子孝養像も本堂内に移っておられました。放光樟像の背後に祀られており、かなり近くから拝ませて頂くことができました。
羅漢石像。
虎の手綱を取る姿でしょうか。
ご住職の昔話では、お寺の御供撒きが行われた際、本堂前のこの辺りは参詣客で埋まったようです。中門の両脇に伸びる廻廊屋根にも参詣客がよじ登り、それはそれはすごい盛況だったようです。
世尊寺太子堂。
安定感のある立派な建築物ですね。
数多くの堂宇が建ち並び、大いに栄えた世尊寺ではありますが、今となっては本堂、太子堂、庫裡、鐘楼が主な建物として残るのみです。
聖徳太子十六才孝養像。
像高1mの寄木造です。金泥彩色の仏像で、柄香炉を手にしています。
太子が16歳の時、天皇がご病気になられたそうです。日夜傍に侍して看病し、食事を供された上に、香炉を捧げて平癒を祈ったという故事に因みます。みずら姿の太子が、真っ直ぐ前方を見つめています。わずかに残った頬の金色が印象的ですね。
ここにも聖徳太子の橘紋が見られました。
太子生誕の地と伝わる飛鳥の橘寺でもよく目にする紋ですね。
泣く子も黙る聖徳太子。
歴史上の人物の中でも、そのスター性は抜きん出ているのではないでしょうか。今となっては、聖徳太子の一万円札が懐かしいですね。和を以て貴しとなす、聖徳太子抜きには日本の歴史は語れません。
庫裡前のハナノキの落葉
境内には色々な珍しい草木が見られます。
ご住職のご尽力によって、様々な植物が楽しめるお寺へと変貌を遂げているようです。私が今回訪れたのは師走の初頭でした。春爛漫の花を愛でることは出来ませんでしたが、ご住職のご好意で境内で撮影したお写真を二枚頂きました。
本堂右手前、庫裡の前にハナノキが植わっています。
ハナノキ? 聞いたことのない名前だったので、ご住職にお伺いしたのですが、なんでも奈良県に5本しかない珍しい木ということでした。カエデ科に属するようで、春になると紅色の花を咲かせます。今はすっかり葉も落ちてしまって、裸ん坊の状態でしたが、今度は開花時期に訪れてみたいものですね。
ハナノキの紅葉落葉。
わぁ、綺麗な紅葉絨毯ですね!落葉した時の写真をお譲り頂きました。毎日落ち葉の掃除が大変だったようですが、これだけ立派な枝振りですから無理もありません。
太い幹がクの字に曲がっています。
グッとここに重みが圧し掛かっているのかと思うと、こちらまでチカラが入ります(笑)
世尊寺近くの砂防公園には、柳の渡しの案内板がありました。
古代、橋もなく流れのままであるところでは、静かな川の淀みに舟を浮かべ渡りました。それが渡し場として栄え、町内には4つの渡し場があったといわれています。なかでも六田の柳の渡しは古くから人に知られています。
大淀町北六田にある渡し場跡ですね。
吉野川沿いの柳の木の下には、天明6年(1786)に大坂の山上講が建てた石灯籠が残っています。伊勢街道から吉野山へ向かう道標にもなっており、かつての交通の要衝であったことがうかがえます。
本尊・放光樟像の向かって左奥に、もう一つの見所である十一面観音菩薩立像が祀られています。
右手に文殊菩薩、左手には役行者像を配されていました。
世尊寺の十一面観音菩薩立像。
推古天皇3年(595)、淡路島に香木・沈水香(じんすいこう)が流れ着き、天皇がその香木で観音像を造らせたと伝わります。吉野の比曽寺に祀った様子が『聖徳太子伝暦』などにも見られ、この仏像と重なります。十一面観音菩薩立像も時に光を放つと言われ、その霊性の高さがうかがえます。
平成26年に県文化財保存課の指導の下、300年ぶりに修理・修復が施されました。頭部は鎌倉期の後補とされますが、基本的には奈良時代の仏像です。
壇上桜に感動した芭蕉の句碑
吉野の世尊寺には、かつて色々な人々が訪れています。
清和天皇、陽成天皇、宇多天皇の行幸もあり、弘法大師空海の足跡も見ることができます。ご住職によれば、空海は世尊寺から北西方向にある安産の滝まで通っていたと云います。さらには江戸時代の俳人・松尾芭蕉もここを訪れています。
本堂前の藤棚の下に、道案内が出ていました。
廻廊を横切って本堂裏手へ行くと、そこには十三重石塔や芭蕉の句碑、聖徳太子お手植えの壇上桜(不老長寿の桜)が控えていました。
瑞垣の中に壇上桜、その右手には芭蕉の句碑が建っています。
貞享5年(1688)の4月、弟子の杜国を伴って世尊寺に参詣した松尾芭蕉。折しも咲き匂う太子お手植えの檀上桜を眺めて詠じたと伝えられます。芭蕉45歳の時の一句です。
世にさかる 花にも念佛 まうしけり 芭蕉
句碑の手前にわずかな紅葉が見られました。
その向こうには、十三重石塔が聳えています。
今年の紅葉は、例年にも増して駆け足で過ぎ去って行ったような気がします。
もう少し早ければ、壇上桜の紅葉も愛でることが出来たのでしょうか。
ここにも橘紋が!
山深いこの地で、太子お手植えの桜に出会えるとは思ってもみませんでした。
壇上桜は約150年前の台風で倒れています。
やがて根元付近から幹が伸びて、見事に蘇生した逸話が残されています。「不老長寿の桜」と呼ばれる所以ですね。
芭蕉の句碑の案内板。
三重県の伊賀上野で生を享けた芭蕉ですが、その誕生日はお盆に当たる8月15日だったんですね。奥の細道、野ざらし紀行、笈の小文などの句集はよく知られるところです。
壇上桜を詠った芭蕉の句碑。
ところで壇上桜の「壇」は、木偏の「檀」とも書かれているようです。世尊寺の拝観パンフレットにも「檀上桜」と木偏で記されています。まぁ、どちらでもいいんでしょうかね。
世尊寺の配置図。
現在の本堂(講堂跡)を中心に、幾つかの建物が並んでいます。
世尊寺のさるすべり。
中門を入って廻廊に沿うように左へ進むと、サルスベリの木が植えられていました。
世尊寺の百日紅は純白のさるすべりとして有名です。樹高約15m、樹齢100年を超える立派な古木です。
中門右手に見えているのが鐘楼で、毎日午前11時には鐘が撞かれます。大晦日の除夜の鐘も撞かれ、その際には長い行列ができるそうです。
ご住職から頂いたもう一枚の写真。
実に美しい姿のオオヤマレンゲです。季節になると、境内にはオオヤマレンゲも開花するそうです。
これは是非、実際に咲いているところを見てみたいですね。
世尊寺にまつわる色々なお話をご住職にお聴かせ頂き、大変充実した一日となりました。世尊寺の拝観料は300円ですが、少しだけ上乗せして納めて参りました。放光樟像をはじめ、世尊寺の歴史が描かれた現光寺縁起絵巻もこれから注目を集めることになるでしょう。純白のサルスベリにオオヤマレンゲ、さらにはハナノキに田毎の月と、話題には事欠かないお寺さんです。
<世尊寺(比曽寺跡)の拝観案内>
- 住所 :奈良県吉野郡大淀町比曽762
- 宗派 :曹洞宗
- 本尊 :阿弥陀如来坐像(放光樟像)
- 遺跡遺物:金堂跡 梵鐘 古瓦 現光寺縁起絵巻 古文書 版木
- アクセス:近鉄六田駅から奈良交通バス「比曽口」下車、または近鉄大和上市駅からタクシー