辰年から巳年への移り変わり。
信貴山頂の空鉢護法堂(くうはつごほうどう)には、毘沙門天の眷属・八大龍王の上首である難陀龍王が祀られています。空鉢様は巳の姿(龍神)で出現すると伝わります。実際に白蛇が飼われていたようですが、山頂の片隅に「みーさん」のお墓がありました。一願成就の巳さんに手を合わせ、お参りを済ませて来ました。
空鉢護法堂の巳さん。
珍しい名前のお堂ですよね。空鉢(くうはつ)?
参拝受付の方にお伺いすると、かの国宝『信貴山縁起絵巻』に由来しているようです。絵巻物の「飛倉之巻(とびくらのまき)」に描かれるワンシーン。信貴山中興の祖・命蓮上人(みょうれんしょうにん)が、貪欲な山崎長者の蔵を空鉢に乗せて飛び去らせ、驚き嘆く長者に慈悲の心を諭して福徳を授けたお話が伝わります。空鉢とは、空の托鉢を意味しているようですね。
松永屋敷跡から奥之院へ!本堂の戒壇巡りを体験
聖徳太子が毘沙門天王を感得した信貴山。
本堂の舞台からは大和平野が一望できます。さらに標高の高い空鉢護法堂からの眺めは素晴らしく、絶景のお寺としても名高い信貴山朝護孫子寺。今回の参拝では、本堂地階の戒壇巡りも体験しました。戒壇巡りの拝観料は200円です。光の全く届かない真っ暗闇を、右手の壁伝いに進みます。進んだ先には如意宝珠を納める錠前があり、その錠前に触れることでご利益に授かるという流れ。
信貴山朝護孫子寺の大寅(世界一福寅)。
張り子の寅もここまで大きくなると、とてもキャッチーです!
松永屋敷跡。
木像のモデルは松永久秀でしょう。
空鉢護法堂から信貴山城址碑を経由して、山を下って行きます。しばらく歩くと現れるのが、平坦に切り拓かれた松永屋敷跡です。梯郭状に築かれた曲輪や土塁、城道などが残っていました。
松永久秀の居館施設ですね。
信貴山朝護孫子寺の奥之院。
境内の多宝塔から徒歩30分ほどの場所に佇みます。朝護孫子寺にお詣りする人でも、なかなか奥之院まで足を延ばすことはないでしょう。奥之院の御本尊は、汗かきの毘沙門天王と呼ばれています。
仏教擁護派の聖徳太子と排斥派の物部守屋。
太子が守屋征伐に出陣した際、毘沙門天が太子軍の先頭に立ち、汗まみれになって戦ったと伝わります。そのお陰で勝利を収めた太子軍。汗かきの毘沙門天王は“急先鋒”というわけですね。
奥之院のお堂右手に祀られる多聞天王。
多聞天の向かって左が善膩師童子(ぜんにしどうじ)、右が吉祥天です。
善膩師童子は毘沙門天と吉祥天の間に生まれた童子のようで、和合の象徴とされています。多聞天は毘沙門天のことですから、つまりこの三体はご家族を表していることになりますね。
多聞天に踏みつけられる邪鬼。
奥之院の境内奥には、炭化して黒くなった焼米の出土地があります。厄除けのお守りに珍重されているようです。
赤門前の張子の虎。
思わずまたがりたくなるサイズですが、くれぐれも触れることのないように(;^_^A
寅ポストの上手にある塔頭・成福院(じょうふくいん)。
「信貴山融通尊」と刻みます。
成福院は信貴山の宿坊の一つです。融通殿に祀られる融通さまは福徳・開運・金運・良縁等々すべてのことを叶えて下さるようです。
本堂から望む大和平野。
信貴山朝護孫子寺のシンボル「百足(むかで)」がデザインされています。決して後退しないムカデは戦国武将のお気に入りです。また「お足」がたくさん付いているムカデは、金運を呼ぶラッキーアイテムでもあります。
本堂の香炉台。
「竹虎」が図案化されています。竹と虎は切っても切れない間柄ですね。家紋のデザインにも採用されていることを思うと、縁起の良さを感じます。
仁王門前の千体地蔵。
室町時代中期以降から江戸時代にかけてのお地蔵様。
幾度か朝護孫子寺にはお参りしていましたが、このルートを通ったのは初めてです。柿本家、アベノ日本一ラーメン、古民家カフェてぬき庵を経て千体地蔵に至ります。
こちらは塔頭・玉蔵院(ぎょくぞういん)の日本一大地蔵。
「浴油堂」での護摩祈祷や僧・尼僧体験もできます。
巳年を迎えるに当たり、空鉢護法堂を頂く信貴山にお詣りして新しい一年を迎えましょう。