高取町寺崎にある方形墳・寺崎白壁塚古墳を見学して参りました。
漆喰の塗られた横口式石槨が開口しており、鉄柵越しに石槨の中を覗き込むことができます。以前は石槨内に入ることもできたようですが、残念ながら現時点では柵越しの見学となります。行き方に迷う人の多い古墳でしたが、今はもうそんな心配はありません。アクセスルートの竹林内には立派な道標が立ち、行く手を阻む熊笹も綺麗に刈り取られていました。
寺崎白壁塚古墳の横口式石槨前。
開口部までは階段が付いており、誰でも簡単に近づくことができます。
漆喰のある横口式石槨を見学
寺崎白壁塚古墳の見所は南に開口した横口式石槨です。
横口式石槨とは終末期古墳に多く見られる横穴式の埋葬空間のことで、石棺式石室とも呼ばれます。横穴式石室の玄室のような広い空間ではなく、棺を納められる程度に造られた小さな石室を意味します。
国指定史跡・寺崎白壁塚古墳の横口式石槨。
なるほど、小さな空間ですね。
前室や羨道が付くこともある横口式石槨ですが、寺崎白壁塚古墳にも前室と羨道が付いていました。前室内の床面には榛原石が散乱していたそうです。調査報告によれば、この榛原石は前室床面に敷かれていた敷石の可能性が高いとのことです。
石材の隙間に目をやれば、白い漆喰が充填されているのが分かりますね。
寺崎白壁塚古墳の墳丘北側では斜面がカットされ、幅6m・深さ2mのコの字形の掘割りが巡っています。風水思想が入った古墳と言われる所以で、大変興味深いものを感じます。果たして被葬者は渡来系氏族なのでしょうか、謎に満ちた古墳の一つと言えるでしょう。
寺崎白壁塚古墳のアクセス方法
毎度のことですが、古墳の行き方に迷う人は多いものです。
私も今回、はっきりとしたルート確認は行っていませんでした。ほぼ行き当たりばったりの探索だったのですが、好運にも新たな古墳を発掘中の高取町教育委員会の方に出会いました。寺崎白壁塚古墳への行き方をお尋ねすると、与楽鑵子塚古墳の左手を通って竹林の中に入り、あとは道案内に従って行けばよいとのことでした。今はしっかりとした道も付いており、迷うことはないとの太鼓判を押して頂きました。
寺崎白壁塚古墳へ続く竹林の入口。
ここから徒歩数分の北西方向に、寺崎白壁塚古墳はあります。いきなり竹林からでは分かりづらいと思いますので、もう少し巻き戻してそのルートをご案内致します。
俗に言うカンジョ古墳ですね。道の向こうに見えている建物は飛鳥病院です。寺崎白壁塚古墳へはカンジョ古墳の左手の道を進んで行きます。
ぐるりと回り込んで、さらに進みます。
ブルーシートが掛けられている墳丘は、先ほどのカンジョ古墳です。行く手に何やら煙が見えますね。
数人の作業員が確認できます。
後でご案内致しますが、新たな発掘調査が行われている現場でした。丘陵部分の竹が伐採され、古墳の隆起のようなものが露わになっています。現場にいらっしゃった高取町教育委員会の方に寺崎白壁塚古墳の場所をお聞きし、いよいよ竹林の中へと足を踏み入れます。
いかにも古墳に出会えそうな気配が漂います。
見学者のために設けられたものなのか、確かに道が付いています。
この突き当りを右手に取ります。
横口式石槨に塗られていた ”あの白い漆喰” が白壁塚古墳の名前の由来になっているようです。
さらに進んで行きます。
つい先ほど、与楽鑵子塚古墳の脇で休憩中の作業員にお伺いしたのですが、与楽鑵子塚の墳丘にも登ることができるようです。ただ最近は、猪に荒らされてしまっているとのことでした。ふとそのことを思い出し、ここもイノシシの通り道になっているのかもしれないと怖気づいてしまいます(笑) 周囲に警戒しながら気を取り直し、さらに前進します。
まぁ、こういう道案内が付いていると安心ですよね。
道なき道を行く古墳探索も何度か経験しているため、道標ひとつで癒されてしまいます。
この階段を上って行くようです。
ここまで親切に教えて頂ければ、もう迷うこともありません。
この尾根道を伝って行きます。
どうやらこの先に、お目当ての古墳があるようです。
ありました、ありました!
土壇の上に案内板のようなものが見えています。そこに付けられた階段を上って壇上へと歩を進めます。
高取町指定文化財の寺崎白壁塚古墳。
白壁塚古墳は一辺30m見かけの高さ9mの二段築成の方形墳と考えられています。墳丘裾には幅6m深さ2mのコ字形の掘割りが巡ります。墳丘前面には長さ約30m幅9mの壇(テラス)がつき、墳丘背面の地形は風水思想を反映しています。埋葬施設は閃緑岩の切石を使用した横口式石槨で石槨部は長さ2.8m幅1.1m高さ0.9mを測り、前面に長さ8.2m幅1.6~1.9mの前室と羨道がつきます。石材間には漆喰が充填されています。古墳の築造は出土遺物などから7世紀前半と考えられています。 高取町教育委員会
案内板の立つこの辺りは、古墳の壇(テラス)に当たるようですね。
古墳の解説パネルではあまり目にすることのない「壇(テラス)」という言葉に少々面喰います。
あっ、開口していますね。
いよいよ横口式石槨とのご対面です。
この階段を上ります。
即席で作られたような階段ではありますが、これがあるとないとでは大きな違いがあります。ご高齢の方でも安全に見学することができますね。
鉄柵が嵌め込まれています。
その手前の側壁は、おそらく羨道の側壁だと思われます。
羨門付近からの出土遺物も確認されているようです。羨道を埋める際に、意図的に置かれたと思われる土師器やミニチュア竈の破片が出土しています。古墳の出土品でよく聞くミニチュア窯やミニチュア炊飯具ですが、一体何の目的で葬られたのでしょうか。ミニチュアですから、実用性は無かったものと思われます。いつの日か、橿考研の学芸員の方にでも聞いてみようと思います。
八角墳の可能性も残す白壁塚古墳
さぁ、いよいよ寺崎白壁塚古墳の見所である横口式石槨とのご対面です。
はやる気持ちを抑えながら、鉄柵の前に立ちます。
充填された漆喰!
心臓部の石槨へと続く前室空間は、横口式石槨ならではですね。
前室内からは中世の遺物に混ざって、ミニチュア炊飯具の鍋や追葬時の木棺に使われたと思われる鉄釘などが出土しています。寺崎白壁塚古墳の石槨前室は、12世紀後半の中世墓として再利用されているようです。
石材の隙間をカバーする漆喰。
見事に行き渡っていますね。
寺崎白壁塚古墳の名前の由来にもなった漆喰です。
案内板によれば白壁塚古墳は方形墳となっていますが、一説によれば八角墳の可能性も示唆されます。墳丘前方の斜面が台形の基壇状になっており、桜井市の舒明天皇陵(段ノ塚古墳)とよく似た造りのようです。もし八角墳だとすれば、天皇陵の可能性も出て参ります。果たして今私は、天皇陵の石槨を目の当たりにしているのか!?そう思うと、背筋がゾクッとするのを覚えるのでした。
石槨の床石は凝灰岩製です。
床石以外は飛鳥石の切石が巧みに組み合わされ、端正な石槨を形成していました。
横口式石槨の開口部から外の世界に振り返ります。
手摺り付きの階段のすぐ横まで石が組まれていますね。羨道の側壁だと思われますが、割と長い羨道だったことがうかがえます。
さすがに奈良は奥が深いですね。
実に様々な古墳が存在しています。
特に真弓丘陵は古墳の宝庫とも言える場所です。
羨門付近の巨石。
高取町教育委員会の方に偶然出会えてラッキーでした。
アクセスが困難な古墳だとばかり思っていましたが、払拭すべき固定観念だったことに気付かされました。これは是非、足を運んでみるべき古墳の一つです。
来た道を引き返します。
実はこの帰り道で少し迷ってしまいました(笑) 正規ルートに戻り難なく帰還できたわけですが、少し道を外れると方向感覚が無くなります。あれ、おかしいな?と思ったら、焦らずに辿って来た道を思い出すようにしましょう。
あちらこちらに白いテーブが木に巻かれています。
道に迷ったら、一つの手がかりにするといいでしょう。
こんな感じで巻かれています。
山の中の恐ろしさも少し体験することができ、大変ためになる一日でした(笑)
方向感覚が無くなるというのは初体験でした。
四方八方よく似た景色が広がっていれば、誰しもその罠にはまってしまうのです。要は焦らないことです。そんなに遠くへは行っていないのですから、落ち着いて対処するように致しましょう。
見事な横口式石槨です。
身近にこんな歴史遺産と触れ合えるのです。やはり奈良は素敵な所です。
おまけになりますが、寺崎白壁塚古墳の見学前に立ち寄った古墳発掘現場をご紹介しておきます。まだ発見されたわけではないので、古墳であるかどうかも定かではありませんが、日々このような感じで発掘調査が続けられていることに感銘を受けました。
この隆起が古墳ではないか?とアタリを付けられた場所です。
まずは疑ってみることから始まるんでしょうね。
丘陵上には竹の切り株があちこちに見られます。
期待を抱かせる光景ですね。
黙々と続けられる発掘調査。
何か出てくるのでしょうか?新聞紙面を賑わす日も近いのでしょうか?
燦々と太陽が照り付け、竹林の中の隆起が浮かび上がります。
場所は飛鳥病院の北側、寺崎白壁塚古墳の南方に当たります。
左手奥に見えているのが飛鳥病院です。
乾城古墳~与楽鑵子塚古墳~寺崎白壁塚古墳の古墳探索ルートに、新たに加わる古墳となるのでしょうか。現場からは緊張した空気が伝わって参ります。
世紀の発見が相次ぐ真弓丘陵エリアから、今後も目が離せませんね。