日本最初の女帝は推古天皇と言われます。
その一方で、ひょっとすると飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)だったのかもしれない。そんな歴史の幕間に登場した女性のお墓が葛城市に眠っています。
飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのう はにくちのおかのみささぎ)。
宮内庁管轄の陵墓で、別名を北花内大塚古墳と言います。
飯豊(いいとよ)とはフクロウの古名を意味します。古くはイヒドヨと発音していたようですが、知恵の象徴とも言われるフクロウの命名には何か謂れがあるのでしょうか。大神神社末社の久延彦神社には「知恵ふくろう」が祀られていますが、知恵のシンボルでもあり、学問の神様として信奉を集めています。
忍海角刺宮跡で執政を行った飯豊青皇女
第22代清寧天皇は跡継ぎを残さないまま崩御します。
後継者を決めるために、葛城の忍海の人々が大王家につながる二人の皇子を見つけ出します。ところが、この二人の兄弟がお互いに譲り合ってなかなか皇位に就こうとしませんでした。そこで登場したのが、飯豊青皇女だったというわけです。
第23代顕宗天皇(弟の弘計皇子;をけのみこ)にバトンが渡るまでの短い期間ではありましたが、執政者だったと伝わる飯豊天皇の陵墓が近鉄新庄駅から徒歩7,8分の場所に佇みます。
明日香村八釣に弘計皇子神社がありますので、ご興味のある方は是非お参り下さい。
飯豊天皇埴口丘陵。
民家から細い道を一本隔てた場所に陵墓があります。
飯豊天皇が政を行ったとされる角刺神社横の鏡池。
飯豊天皇は毎朝この池で顔を洗って、池に自分の姿を映していたと伝えられます。
鏡には呪術的なイメージがあります。黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡など、権力者の墓からは多数の鏡が発見されています。鏡を使う時のことを考えれば分かりますが、鏡には光が付き物です。太陽の光に反射して映し出される自分の姿。個人的見解ではありますが、そこには何か太陽神への崇拝が感じられるのです。
角刺神社境内の由緒書。
飯豊天皇の執政期間はわずか10か月ほどだったと伝えられます。
飯豊天皇埴口丘陵の住所は奈良県葛城市北花内です。
陵墓は近鉄御所線の線路近くにあり、新庄駅と忍海駅のほぼ中間点~どちらかと言えば新庄駅寄りに位置しています。陵墓の南側には笛吹若宮神社が鎮座しており、辺りには厳かな雰囲気が漂います。
近鉄新庄駅西側の柿本神社からも十分に徒歩圏内ですので、柿本神社参拝のついでに立ち寄ってみられてはいかがでしょうか。
建ち並ぶ民家のすぐ横に佇む飯豊天皇の陵墓。
陵墓には駐車場が無かったので、北側にある新庄健康福祉センターの駐車場を利用させて頂きました。
ここが入口。
飯豊天皇埴口丘陵の管理は、宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所に委ねられているようです。
左手に陵墓を見ながら歩いて行きます。
箸墓古墳などに比べれば、随分小ぢんまりした印象は拭えませんが、周囲は美しく掃き清められていて清々しい気持ちになります。
宮内庁の立ち入り禁止の看板。
陵墓ではお馴染みの光景です。
男性と一度だけの目合ひ(まぐわい)
日本書紀の中に、前後の脈絡も無く唐突に出てくる文章があります。
飯豊(いいとよ)の皇女(ひめみこ)、角刺(つのさし)の宮にて、まぐわいしたまいき。人に語りて、“ひとはし女の道を知りぬ。またいずくんぞ異ならん。終(つい)に、まぐわいを願わじ”とのたまいき
目合ひ(まぐわい)とは結婚、性交を意味する古語名詞です。
まぐわいをしたけれども、良くなかった。謎に満ちたこの一節は何を意味しているのでしょうか。
角刺神社から北西900m先にある飯豊天皇埴口丘陵。
歴史の影に隠れる格好の飯豊青皇女。
飯豊青皇女が天皇の扱いになっている歴史書も古来より数冊残されており、日本初の女性天皇として捉えることもできます。