二上山の雄岳東麓にある鳥谷口(とりたにぐち)古墳。
砂防指定地「初田川」の畔に開口する横口式石槨です。
築造時期は7世紀中頃とされ、被葬者は非業の死を遂げた大津皇子ではないかとする説があります。
鳥谷口古墳の埋葬施設。
柵越しではありますが、中を覗き見ることが出来ました。
葛城市染野の方墳!二上山登山口の手前にある奈良県指定史跡
鳥谷口古墳は昭和62年に県指定史跡に登録されています。
鳥谷口古墳のさらに手前には、當麻山口神社や郡山藩主の影堂である傘堂があります。古墳の所在地は葛城市染野で、「染野(しめ)」と読むようです。奈良県にありがちな読み方の難しい難読地名の一つですね。
こんもりと盛り上がった墳丘。
墳形は方墳で、一辺7.6mに復元されています。発見当時は墳丘の半分が破壊されていたようです。ぐるっと回り込んで、墳丘の上に登ることもできます。既に散っていましたが、桜の木がありました。
道の向こうに開口部が見えていますね。
金剛生駒紀泉国定公園と案内されています。砂防指定地「初田川」のすぐ近くでした。
県指定史跡・鳥谷口古墳の案内板。
この古墳は約1,300年前に築造された、一辺が約7.6mの方墳です。墓室は横口式石槨という構造で、南側に開口部があり、二上山産出の凝灰岩が使用されています。また、底石や北側の側壁には家形石棺の蓋石の未成品を利用するなど、特異な石槨構造となっています。 指定年月日:昭和62年3月10日
二上山産の凝灰岩。
奈良県内に数多ある古墳で、よく耳にする石材です。
鳥谷口古墳の石槨底石は、縄掛突起を持たない“家形石棺の蓋石”を利用しています。蓋石の内面を上に向けて置かれていたようです。
階段を上がり、開口部へと向かいます。
開口部の周辺は高台になっており、二上山麓の大池を見下ろす格好になります。
鳥谷口古墳の開口部。
背後へと続く階段も見えます。どんどん奥へ進んで行くと、どうやら二上山の山中へと通じているようでした。
鳥谷口古墳の墳丘には、大型の割石を敷き詰めた精緻な貼石が施されていました。
今も二上山雄岳の山頂にある大津皇子の墓。
目の前の横口式石槨は、大津皇子を葬った埋葬施設なのでしょうか。聡明かつ勇敢な資質を持つ人物だったという大津皇子。天武天皇の第3皇子に当たります。天武天皇の死後わずか1か月にして、謀反の罪を着せられ死罪になりました。
わずか24歳でこの世を去った大津皇子。
濡れ衣・・・その恵まれた資質故の最期だったのでしょう。
開口部に突起がありますね。
大津皇子の死を悼んだ万葉歌はあまりにも有名です。大津皇子の姉・大伯皇女(おおくのひめみこ)が謳い上げたという、
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世と我が見む
どこか悲しい響き。
弟を想う心が、日没の象徴である二上山と重なります。
特異な石槨構造と言いますが、なるほどという感じですね。
加工途中の石棺石材が多く使われており、他に類を見ない埋葬施設です。
天井石には縄掛突起が見られます。
これもおそらく、加工途中で流用された石材なのでしょう。
古代の息吹が伝わります。
今から1,300年前の遺品とも言える横口式石槨。
花を添えてみます。
もう少し早く訪れれば、桜の花が咲いていたことでしょう。儚い桜と古墳はよく似合います。古墳の周囲に桜が咲く光景は、そこはかとなく憐憫を誘います。
真横から開口部を見ます。
色んな角度から鳥谷口古墳を味わいます。
墳丘裏手の階段。
このまま山中へと通じているのでしょう。
開口部の真上から撮影。
足元に注意しながら覗き込みました。
墳丘の近くには石のベンチも置かれていました。
見晴らしのいい場所ですから、鳥谷口古墳は観光向けのビュースポットにもなっています。この後、登山口近くまで散策を楽しみました。大龍寺の左手には釣り堀があり、さらに歩を進めると道端にシャガが開花していました。季節は初夏へと進んでいきます。