山の辺の道近くの衾田陵(ふすまだりょう)は、第26代継体天皇の皇后墓とされます。
跡継ぎがいなかったという第25代武烈天皇。
天皇の系譜を守るため、福井から連れて来られたのが継体天皇でした。天皇家の血が薄いことで知られますが、その皇后である手白香皇女(たしらかのひめみこ)は天皇家の血筋です。第24代仁賢天皇の娘に当たります。
柿畑と衾田陵(西殿塚古墳)。
被葬者が確定しているわけではなく、あくまでも宮内庁の治定です。築造時期は古墳時代のかなり早い時期に当たり、手白香皇女が生きていた時代と合いません。手白香皇女の真陵は、山の辺の道沿いの西山塚古墳とする説が有力です。
柿畑と彼岸花を楽しむ衾田陵
西殿塚古墳(衾田陵)の所在地は天理市中山町です。
中山大塚古墳や燈籠山古墳が同じ尾根上に築かれています。衾田陵は全長230mの巨大前方後円墳で、全国第18位の規模を誇ります。前方部を南に向け、すぐ東には東殿塚古墳が主軸を揃えて佇んでいました。
柿畑と衾田陵。
萱生町にも程近く、おそらくこの柿の木は「刀根早生」でしょう。
西殿塚古墳(衾田陵)の航空写真。
前方後方墳の下池山古墳が、西殿塚の西にありますね。時代的にも合致する西山塚古墳は、衾田陵の後円部から見て北西方向です。東から西にかけ傾斜面に築造されている衾田陵。東西の比高が13mもあるようです。そのため、西側には「エプロン状張り出し部」と称する基壇が存在しています。
衾田陵の後円部。
北側から撮影しました。
後円部、および前方部の墳頂には方形壇が存在していたようです。未確認ではありますが、埋葬施設は竪穴式石室ではないかと言われています。
天理市トレイルセンターに展示中の西殿塚古墳出土円筒埴輪。
円筒埴輪の口縁部(こうえんぶ)の破片です。口縁付近に段が表現されており、「有段口縁(ゆうだんこうえん)」と呼ばれています。この有段口縁は円筒埴輪のなかでも古い時期の特徴で、新しい時期の埴輪では段の表現を持たなくなります。
確かに円筒埴輪の縁に段差がありますね。
有段口縁を持つ特殊円筒埴輪は、古い時期の特徴のようです。箸墓古墳に次いで築造されたとも伝わる西殿塚古墳。出土した埴輪からも、その歴史の古さがうかがえます。
太神宮燈籠と猿田彦大神の標石。
山の辺の道沿いに建つ目印ですが、ここを東へ登って行くと衾田陵です。衾田陵へのアクセスは、山の辺の道を歩いているともう一つのポイントがあります。春日神を祭る五社神社です。社前には衾田陵を示す道標が立っています。
太神宮燈籠のポイントからも衾田陵(西殿塚古墳)の墳丘が見えています。ここから一旦山の辺の道を外れ、東へ進んで右へ折れます。しばらく行くと、衾田陵の道案内が出ていました。
柿畑の脇を南へ進みます。
古墳の主軸と並行する畦道です。
左へ振り返ると、巨大な前方後円墳が姿を現しました。
やはり大きいですね。
ここを左です。
右へ視界が開けるコーナーで左折します。
両側に柿畑が迫ります。
いかにも奈良らしい風景ですね。柿のトンネルを抜けて行きます。
衾田陵の彼岸花。
9月末に訪れた衾田陵。季節の風物詩に彩られ、いつになく華やかでした。
前方部の拝所に辿り着きました。
拝所の周りにもたくさんの柿の実が成っています。
衾田陵の正面。
大和(おおやまと)古墳群の中山支群。その中で最も大きな古墳の前に出ます。
手白香皇女は欽明天皇の母親に当たるようです。
欽明天皇と言えば、仏教伝来時の天皇ですよね。間違いなく日本の歴史の黎明期を支えた天皇ですが、その母親が手白香皇女なんです。歴史上の人物が、グッと身近に迫る感があります。
大和古墳群 西殿塚古墳・東殿塚古墳の案内板。
西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳などの前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。
西殿塚古墳は全長約230m、後円部径約145m、前方部幅約130mです。墳丘は東側で三段、西側で四段の段築により形成されており、後円部および前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵(たしらかのひめみこふすまだのみささぎ)」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
山の辺の道の外れ。
ハイキングコースを外れ、緩やかな坂道を登って行かなければなりません。
ちょっとした手間ですが、そこを見逃してしまう人も多いでしょう。観光の醍醐味は、いつも「ちょっと外れた」ポイントにあります。週末や祝日を外したり、人気観光スポットから一本ずれた路地に入ってみる。ほんの少しの工夫で、今まで気づかなかったドキドキが待っています。
『築造時期』これら2基の古墳の築造時期については、これまでの発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪・鰭付楕円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられています。
継体天皇のことだと思いますが、難しい漢字で書かれていますね。
衾田陵(ふすまだのみささぎ)・・・どうやらこの辺りに衾(ふすま)という地名があったようです。中山大塚古墳の南に柿本人麻呂の万葉歌碑があります。その万葉歌には「衾道(ふすまじ)」とあり、衾道は葬送の道でした。周辺に古墳が多いことからも、弔いの場所だったのでしょう。
手白香皇女衾田陵。
瑞垣の中に鳥居が建ち、その奥に陵が広がる。どこの天皇陵でも、よく似た光景です。
柿畑と彼岸花。
衾田陵の周りは、とにかく柿とヒガンバナでいっぱいでした。
拝所を後にして、帰路に就きます。
西殿塚古墳(衾田陵)は高所にあり、西に広がる大和平野を遠望します。
畝傍山も見えています。
その奥には、名も知れぬ峰々が幾重にも重なっていました。古代の人が「蜻蛉島」と呼んだのも納得の風景です。
電柱に「カヨウ」が見えます。
刀根早生(柿の品種名)の発祥地である萱生町ですね。
衾田陵を見学した後、集落内をウロウロしていると古い神社を見つけました。「天満宮」と刻む石燈籠が建ち、「萱生中央標」の標石が目に留まります。神社前の民家の表札には「刀根」の苗字がありました。ひょんなことから、刀根さんが開発したという早生柿と結び付きました。