卑弥呼の墓ではないかと伝わる箸墓古墳。
その立ち入り調査が話題になり出してから、当日の何時頃から調査が始まるんだろうかとぼんやり考えていました。平成25年(2013年)2月20日の現地調査の朝、午前10時ぐらいだったでしょうか。
仕事部屋に居る私の耳に、上空を飛ぶヘリコプターの音が飛び込んで参りました。おっ、これは始まったなと思い、さっそく徒歩15分ほどの場所にある箸墓古墳へ出向いてみることにしました
箸墓古墳の立ち入り調査。
古墳の最下段をぐるっと一周して、正面の礼拝所付近まで戻って来られた研究者の方々の様子を捉えています。
報道陣も集結!前方後円墳のくびれ部に石敷き
このような光景は生まれて初めてです!それもそのはず、陵墓に指定されている箸墓古墳への立ち入りは固く禁じられてきたのです。長きに渡る静寂から、箸墓古墳が今目覚めようとしています。
立ち入り調査が終わった後、日本考古学協会の森岡秀人理事がインタビューに応じておられます。
今回の調査では、古墳の一部に石敷きが確認されたことが報告されています。
箸墓古墳は全長280メートルの巨大前方後円墳ですが、その前方部と後円部をつなぐ「くびれ部」に石敷きが確認されたのです。
三輪山を背景に箸墓古墳を横から見ると、その中央付近に美しい形を描く「くびれ」部を確認することができます。当館にご宿泊頂いたお客様を箸墓古墳へご案内する際、よく記念写真を撮影する人気のアングルです。
石敷きの確認された「くびれ部」は、どうやら記念写真の際に写る大池側(北側)のくびれ部ではなく、その反対の南側のくびれ部だったのではないでしょうか。研究者の方々が古墳の周りを歩かれる時に後を付いて行ったのですが、南側のくびれ部で立ち止まって、何やらお互いに話し合っておられる様子がうかがえました。
数多くの報道陣の姿も見られました。
大量の葺き石が見つかった今回の立ち入り調査では、当時の土木技術の粋を集めて築造されたと思われる箸墓古墳の一端が垣間見えます。報道合戦もヒートアップしていきます。
後円部から前方部へ向かう「くびれ部」付近。
この辺りで、研究者の方々が立ち止まって比較的長い時間を過ごしておられました。
私が箸墓古墳へ到着した時には、もう既に立ち入り調査が始まっていました。
桜井市立大三輪中学校の前を通って箸墓古墳へアクセスしたのですが、後円部の北側の大池方向へ出た時に調査団の列が見えました。上空にはけたたましく鳴り響くヘリコプターの音が聞こえます。
箸墓古墳とヘリコプター。
古墳の全貌を捉えるには、やはり上空から俯瞰するのが一番です。
私が確認したところでは、二機のヘリコプターが寒空を切り裂くように旋回していました。
雪の残る箸墓古墳。
JR万葉まほろば線の巻向駅へ通じる道沿いを調査されています。
カーブミラーに桜井市の文字が見えます。
箸墓古墳の住所は桜井市箸中(はしなか)です。
箸墓古墳の名前は、陰部を箸で突き刺したミステリアスな伝説に由来しており、近くにそびえる三輪山との関係が見え隠れします。
角を曲がった所にある箸墓古墳の兆域原標付近。
古墳の結界を示す標石ですね。
ロープが張られており、向こう側が聖域であることを知らせます。静安と尊厳が何より優先されてきた陵墓の歴史に新たな一ページが加わります。
道路の左側が箸墓古墳、その向こう側に雪化粧をした三輪山を望みます。
箸墓古墳の築造にも、少なからずの影響を与えたであろう神奈備の姿は、立ち入り調査の当日も変わらぬ偉容をたたえます。騒がしい箸墓古墳の周辺を、どのようなお気持ちで見守っていらっしゃるのか(^.^)
「くびれ部」付近で、研究者の方が”何か”をビニール袋に収めていらっしゃいました。
発掘や土器の採集は禁止されていますので、おそらくその他の物であると推測されます。
ほぼ古墳の周囲を周り終えた礼拝所付近。
箸墓古墳へ向かう際、報道陣や見物人で駐車場が満車になることを予想し、徒歩でアクセスすることに決めたのですが、意外と箸墓古墳手前の駐車場には車が入っていませんでした。
その代わりに、南側のくびれ部付近に数多くのなにわナンバーのタクシーが停車していました。
おそらく報道陣の方々が手配されたタクシーではないかと思います。
立ち入り調査が終わり、報道陣によるインタビューの準備が整います。
調査後ほやほやの成果報告が行われるのでしょうか。
日本考古学協会理事の森岡秀人氏。
葺き石が大量に確認された今回の立ち入り調査でしたが、その一方で古墳の周りに配されることの多い埴輪は確認されなかったようです。素人目線の憶測ではありますが、埴輪が無かったということは、やはり卑弥呼の死に伴って殉死する人が多数居たということなのかなとも思いました。
埴輪を創案したのは、垂仁天皇の御前で相撲を取ったとされる野見宿禰です。野見宿禰ゆかりの相撲神社は、箸墓古墳からも徒歩圏内の山の辺の道にあります。改めてここが古代史の舞台であることを再認識させられますね。
遠く大阪方面から、石を人づてに運んで築造されたと伝えられる箸墓古墳。
それだけの動員力を誇った権力者が埋葬されている可能性が指摘されます。
箸墓古墳からも程近い、山の辺の道の途上にある中山大塚古墳の墳丘も葺き石で覆われていたことが分かっています。徐々にではありますが、秘密のベールを脱いでいく箸墓古墳に興味の尽きることはありません。