継体天皇の皇后「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」。
その陵墓は西殿塚古墳に治定されていますが、西山塚古墳こそが真の陵とする説が有力です。山の辺の道沿いの萱生環濠集落にその姿を見ることができました。
前方後円墳の西山塚古墳。
濠の向こうに見えている墳丘は後円部です。前方部を北に向け、後円部の方が高くなっています。山の辺の道の五社神社から北へ向かうと、ほどなく左手に西山塚古墳が見えてきます。
西山塚は古墳時代後期の古墳!ヤギとの遭遇
西山塚古墳は墳丘にも登れるようです。
今回私は山の辺の道ルート上からの見学に留めました。私有地のため、許可を得てから墳丘探索を楽しむようにしましょう。
山の辺の道(東方)から後円部を見ます。
前方部が二段、後円部は三段築成のようです。比高差は5mで、後円部が盛り上がる格好です。水際に建つ小屋の脇を通って、後円部に登ることが出来るようです。
前方部裾にはヤギが繋がれていました。
最近よく見かけるようになりましたが、このヤギも雑草対策でしょうか。
ガードレールに沿ってハイキングコースの “山の辺の道” が続きます。
西山塚古墳の航空写真が出ていました。
墳丘周りの溜池は周濠の痕跡と考えられています。
西山塚古墳は6世紀前半の古墳で、後期古墳に当たります。西殿塚古墳をはじめとする大和古墳群の築造年代は、そのほとんどが古墳時代前期です。かなり時代が下ってからの古墳なんですね。
被葬者とされる手白香皇女の生存時期とも合致し、西殿塚古墳よりは信憑性が高いでしょう。
ちょうどこの辺りに西山塚古墳の案内板がありました。
ここから東へ、集落内に入って行く道があります。緩やかな坂道を登って行くと、丁字路に突き当ります。そこを左へ折れ、道なりに進むと菅原神社(天満宮)がありました。
萱生町の集落内へ入る道。
丁字路の突き当りには大きな木が生えています。
萱生町の菅原神社(天満宮)。
敷地内には遊具があり、近隣住民の憩いの場になっているようです。
大和古墳群の中では珍しく、前方部を北に向けています。
もう少し北へ行くと、竹之内環濠集落がありますよね。昔ながらの環濠集落を見ると、このまま残しておいてほしいと思います。
西山塚古墳(古墳時代後期)の案内板。
西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。
墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114m、後円部径65m、後円部の高さ13m、前方部幅70m、前方部の高さ8mの規模を持ちます。大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20mの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10m、高さ2mほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。
古墳にヤギ、これもまた“奈良らしい”のかもしれません。
明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀ごろの人物であり、西山塚古墳の年代に近似することから、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。 平成22(2010)年3月 天理市教育委員会
西山塚古墳見学の際は、やはり西殿塚古墳も見ておきたいところです。
西山塚も大きな前方後円墳ですが、西山塚よりも遥かに巨大な西殿塚に触れると、肌感覚で何かが分かるはずです。感じ方は人それぞれです。思い思いの古代ロマンを描きながら、散策してみることをおすすめします。
なんとか車一台が通れる道幅ですね。
離合は困難でしょう。
開墾時に家形石棺が確認されているようです。
手白香皇女を埋葬していたのだとすれば、その所在が気になるところですね。
草を食むヤギ。
春秋の観光シーズンには、多くのハイカーが通る道です。
萱生町加圧ポンプ場。
元来、奈良盆地は降水量の少ない地域でした。環濠集落の水も、農業用水や生活用水として利用されてきたと言います。盆地内には四角い溜池が多く、このエリアを特徴づけています。
西殿塚古墳(衾田陵)の後円部。
西山塚古墳とのセット見学がおすすめです。
衾田陵は宮内庁管轄のため、墳丘内に立ち入ることは出来ません。周辺には柿畑が広がり、9月末から10月にかけての見学がベストです。これぞ奈良、という風景が広がっていました。