霊畤(まつりのにわ)。
桜井から宇陀にかけ、折に触れて目にするマツリノニワという言葉。神武東征の足跡が残るエリア内には二つの鳥見山が存在しています。
鳥見山の中にあるという神武天皇が天地神霊を祀った場所。それは果たしてどちらなのか、以前まではどっちが本当なの?と思っていました。ところが、迷う必要もなくどちらも本当のようです。そのことが『日本書紀』の神武記に詳述されていました。
霊畤跡を示す石碑。
ツツジの名所でもある宇陀市の鳥見山山中にあります。
桜井市の等彌神社境内にも、神武天皇顕彰碑が建っていたことを思い出します。等彌神社は鳥見山西麓に位置しています。ちなみに、かの本居宣長は神武記の指し記す場所を桜井市の鳥見山だとしています。
上小野榛原と下小野榛原!榛の木が自生した榛原
日向の国から東へ、東へと向かった神武天皇。
最終的には橿原神宮で即位することになりますが、波乱万丈のその道中は「神武東征」として語り継がれます。
人には東を向く習性があるのかもしれませんね。
人類が誕生したのはアフリカ大陸です。以来、安らぎの土地を求めて東へ東へと向かったと言います。最後まで諦めずに安住の地を求めたのが、極東に住む日本人の祖先であると。とある歴史通のお客様から伺った話ですが、とても興味深いものを覚えます。東、オリエンテーションという言葉にも深い意味が込められていることを再確認します。
鳥見山中霊畤跡碑。
辺りはひっそりと静まり返っていました。
『日本書紀』神武天皇4年2月条によると、「霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、其地(そこ)を号(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原(はりはら)と曰ふ」とあります。
この上小野榛原(かみつおののはりはら)が宇陀市内の鳥見山で、下小野榛原(しもつおののはりはら)が桜井市内の鳥見山ではないかと推測されます。元々、霊畤は二箇所あったのかもしれません。
標高734mの宇陀市鳥見山と、標高245mの桜井市鳥見山。
もちろん、それぞれ別々の山なのですが、神武記に書かれている鳥見山は ”鳥見山” というある地域を表しているのではないか?そんな風にも思えるのです。広いエリアを指して上と下と言っていたのではないか、そんな仮説が立ちます。
鳥見山公園を散策するハイキング客。
榛原(はりはら)。
現代の榛原(はいばら)ですが、かつてこの辺りには榛の木(はんのき)が自生していたと言われます。
カバノキ科の落葉高木で、その榛(はり)樹を伐り拓いた地域が榛原なのです。
霊畤跡へのアプローチ。
ここだけ、細長い石段が付いていました。
その手前にあった石碑。
神武天皇が斎場をつくり、皇祖天神を祀ったという聖域です。
鳥見山と鳥見霊畤。
鳥見山は榛原町と桜井市との境界にそびえる標高734mの山で、トウベ山とも呼ばれています。この鳥見山の中腹には縄文時代から弥生時代の遺跡が広がっており、自然公園となっています。
『日本書紀』神武天皇4年2月条には、「霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、其地(そこ)を号(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原(はりはら)と曰ふ。用て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭りたまふ」とあります。
神話・伝説上の人物である神武天皇が天地の神霊を祭る場所を鳥見山に築き、そこを上小野榛原・下小野榛原と名付けたとされています。この「榛原」が現在の町名の由来となっていますが、江戸時代以前は「萩原(はいばら)」とも書いたようです。
榛原町をはじめ宇陀地方は、『古事記』、『日本書紀』にたびたび登場し、古代から重要な地域であることを知ることができます。
5月に訪れた際、池の周りにはツツジの花が咲いていました。
鳥見山公園として整備されており、つつじの季節には多くの観光客で賑わいます。どうやらこの辺りを、鳥部高原(とうべこうげん)とも呼んだようです。
展望台からの眺望も良好です。
桜井市の鳥見山に比べて標高が高く、なかなかの絶景が広がっていました。
日本人として生まれたなら、間違いなく霊畤(まつりのにわ)は聖地です。是非足を延ばしてみましょう!