聖徳太子が飛鳥と斑鳩の間を往復した筋違道(太子道)。
近鉄田原本線の黒田駅から北へしばらく進むと、左手に三宅の原を詠んだ万葉歌碑が建っています。山の辺の道の万葉歌碑には普段から慣れ親しんでいますが、別の場所で万葉歌碑に出会うことはそう多くありません。
筋違道に建つ万葉歌碑。
犬養孝氏の揮毫により、平成8年(1996)3月に建立されています。三宅町の花として知られるあざさを題材に、恋愛中の息子とその両親との間にほのぼのとした歌が交わされています。
万葉集の愛の花!屏風杵築神社のあざさ
三宅町は忍性菩薩生誕の地としても知られます。
忍性菩薩はボランティアの先駆けとも言うべき社会慈善事業に尽力しました。慈悲深いその御心は、現代の私たちにも訴えかけてくるものがあります。三宅町は奈良県内でも一番小さい町ですが、野球グローブや靴下など、その産業分野でも注目を集めています。
万葉歌碑の前とその北側には、万葉花として親しまれるあざさの水鉢がありました。
開花しているあざさに出会うことはなかなか難しいようで、天気の良い午前中にしか花を開かせないと言われます。私が訪れたのは好天の昼下がりでしたが、辛うじて筋違道沿いの屏風杵築神社の鳥居脇で開花中のあざさを観賞することができました。
屏風杵築神社の鳥居脇に咲くあざさの花。
万葉歌碑に記される歌は、恋愛中の息子に対する母親の問い掛けから始まります。
うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫き 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑぞ 通はすも我子(あご)
「うちひさつ」は枕詞で、「うちひさす」と同じとされます。
うちひさすとは、「全日(うつひ)の射し入る」の意味で、日の光のよく差し込む宮を表しています。枕詞の「うちひさす」は、「都」「宮」「宮路(みやぢ)」「宮の瀬川」「三宅の原」などにかかります。
万葉歌碑の北側にはポンプのようなものも見られます。
あざさの生育に欠かせない水を引き込む役割を果たしているのでしょう。
万葉歌碑から筋違道をさらに北へ進むと、おかげ踊り絵馬で知られる伴堂杵築神社が鎮座しています。
伴堂杵築神社の手前で道がL字形に曲がっています。迷路のような三宅町の道は、外敵の侵入を防ぐ格好のインフラ設備であったことがうかがえます。
万葉歌碑から東方には、『JAならけん三宅』や近鉄橿原線の石見駅があります。
三宅の原の数々の難所を経由して、一体お前はどこの娘さんの元へ通っているのだい?そんな意味合いの問い掛けから始まり、それに答える息子の歌へと続きます。
うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂れ 大和の 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を 押へ刺す うらぐはし子 それぞ我が妻
黒々とした髪に、あざさの黄色い可憐な花を結い垂らした娘の姿が描写されています。
万葉の昔からこの地に咲いていたあざさの花。
聖徳太子が行き交う前に、この辺りで交わされた家族の情景が蘇ります。
近鉄石見駅の東側、新池の畔には椅子に座る男子像の複製埴輪が展示されています。石見(玉子)遺跡展示所には以前から興味を持っていたのですが、また時間のある時にでも訪れてみたいと思います。