但馬のはま船着場跡

天王塚古墳を見学した後、飛鳥川沿いを北上します。

近鉄電車の線路に近づくと、船着場跡が見えてきました。明治中期まで賑わった大和川水運の要衝です。

但馬のはま船着場跡

但馬のはま船着場跡。

覆屋に地蔵石仏が祀られていました。ここから北西方向に、近鉄但馬駅があります。

スポンサーリンク

堺港から国分、亀の瀬を経由して飛鳥川へ!大和川船運の歴史を伝える「但馬のはま」

明治期に物資の運搬で賑わった大和川。

大和川河口の堺港から積荷された船は、国分から亀の瀬を遡り、飛鳥川に入って「但馬のはま」へと至りました。水量の少ないときは、曳き船をしながら上ってきたと言います。飛鳥川に架かる辰ヶ辻橋の下には、綿の実油の水車小屋があったようです。

船つき橋

飛鳥川に架かる船つき橋。

「但馬のはま」のある船着場跡です。

但馬のはま船着場跡の案内板

但馬のはま案内板。

この辺りは「但馬のはま」と呼ばれ、大和川船運の飛鳥川筋の船着場だった。1600年頃(慶長年間)、王寺町の亀の瀬を中継地点として上流の奈良盆地では、魚梁船(やなぶね)と呼ばれる船や私船が百隻以上も往来していた。大阪から積荷された船は亀の瀬を経て飛鳥川に入り「但馬のはま」まで運搬が行われた。大阪から大和へは肥料(干鰯ほしか、油粕あぶらかす)塩・雑貨が上ってきて、大和から大阪へは米、綿、雑穀が下り、明治中期まで盛んに水運が行われた。水量の少ないときは、「曳き船」をしながら上ってきたといわれている。明治25年の鉄道開通により姿を消すに至った。

船つき橋と地蔵石仏

魚肥の干鰯(ほしか)が運ばれていたんですね。

干鰯とは、イワシから油を搾り取ったものを乾燥させた肥料のことです。農村にとっては無くてはならない物だったのでしょう。

但馬のはま船着場跡

鉄道の開通により、姿を消した「但馬のはま船着場」。

物資の輸送手段は時代を物語りますね。

但馬のはま船着場跡

歴史を伝える船着場跡。

奈良県内を見渡すと、寺川沿いにも江戸時代に栄えた今里の浜がありましたね。春に干鰯や油粕の肥料が上り、秋になると収穫された農産物が下って行ったと伝わります。

ならクルの道標

サイクリングロードも通ります。

ならクルの道案内が法隆寺を指し示します。

今も天理大学附属天理図書館には、当時の但馬のはま船着場を表した「大和川運上図」が所蔵されています。

タイトルとURLをコピーしました