禊の一種とされる湯立(ゆだて)。
湯立は果たして、古代の神明裁判の盟神探湯(くかたち)に由来するのか?
とても興味深いテーマです。三輪の初えびすで催された湯立神楽を見学しながら、昔の裁判の難しさに思いを馳せてみました。
湯立神楽に使われた釜の湯。
濡れた笹の葉が釜の上に置かれていますね。釜の周りの石畳はびしょぬれ状態です。
神に問う!古代の誓約(うけい)
熱湯に笹の葉を浸して、参詣者と自らにお湯を振りかけた巫女さん。
湯立はお清めの儀式です。
盟神探湯のような正邪を見極める裁判ではありません。あくまでも身を祓い清めるためにお湯を掛けるわけですが、巫女さんが参拝客のみならず、自らにもそのお湯を掛けていらっしゃるところに盟神探湯の名残が感じられるのです。
湯立神事には、古代に行われていた誓約(うけい)との関係が見え隠れします。
誓約(うけい)とは今風に言えば、硬貨の表と裏のどちらが出るかによってその後の行動を決めるというような、ささやかな賭け事にも通じています。道の分かれ目で表が出れば右、裏が出れば左へ進むといった具合に、ある誓約をしてから占うという方法をとります。
湯立も神に問っているわけです。
自らの身を清めることによって、神様からのメッセージを受け取ろうとしています。
三輪の初えびすをPRする大正楼の幟旗。
盟神探湯神事は、今も飛鳥の甘樫坐神社の境内で行われています。
神に誓って熱湯の中を手で探らせる神明裁判も、手荒い方法ではありますが神様への問いかけになっています。
正しい者はただれず、邪(よこしま)な者はただれるとされます。
論理的に状況証拠を積み上げて解明していく弁護士や検事などいない時代です。
ましてや防犯カメラや携帯電話に至っては皆無の時代です。最後は天地神明に誓って、という境地に辿り着いてもおかしくはありません。
それにしても、熱湯の中に手を入れれば万人が火傷をするのではないでしょうか。
素朴な疑問ですよね。
盟神探湯の実効性は、実際にお湯の中に手を入れる前にあったのではないかと言われています。
見破られはしないかと、自信の無い悪人はあくまでも手を入れようとはしないでしょう。それに反して、嫌疑をかけられた善人は手を入れようとする。慌ててそれを制し、正邪が決着するという段取りです。
果たしてそんな風に上手くいくかどうかは分かりませんが、少なくとも盟神探湯の恐ろしさは万人に知れ渡っていたのではないでしょうか。
湯立神楽と盟神探湯の関係。
やはりどこかでつながっているような気がするのです。