明日香村の甘樫丘近くに佇む向原寺(豊浦寺跡)。
盟神探湯で知られる甘樫坐神社のすぐ北側に位置しています。境内に拝観受付が見当たらないこともあって、未だに本堂内にお参りしたことのなかったお寺です。初夏の陽気に誘われて出向いた明日香村散策でしたが、運良くご住職のガイド付きでご案内して頂くこととなりました。
推古天皇即位の地に残された豊浦宮遺構。
瓦屋根付き遺構の横に見えている建物が、向原寺の本堂です。このすぐ東側の塀越しに甘樫坐神社へと続く道が通っています。今までにも幾度となく、この豊浦宮遺構のすぐ傍を通っていたのかと思うと感慨深いものがあります。
発掘調査時の遺構を現状保存で公開する豊浦宮
豊浦宮(とゆらのみや)とはどのような宮殿だったのか?
歴史を紐解けば、飛鳥時代の幕開けを告げる宮殿跡であることが分かります。
日本最初の女帝・推古天皇が即位したのは592年(崇峻天皇5年)のことです。その即位した場所が豊浦宮とされます。
向原寺の本堂。
この本堂内には、日本仏教ゆかりの観音菩薩像が祀られています。ガラスケースの中に大切に納められており、その柔和な表情に百済仏の面影を探ります。
さて、592年に即位した推古天皇ですが、崇峻天皇が暗殺されてからわずか1か月余りでその地位に就いています。これは驚きのスピードです。崇峻天皇暗殺には蘇我馬子の陰が見え隠れしてきます。戸惑う人心を収めるために女帝を誕生させたとも言われる策略家の馬子。新たに宮殿を建設する時間も無かったため、父である稲目の邸宅跡を新宮としたものと思われます。
発掘当時のまま残される豊浦宮の遺構。
実にリアルですね。
埋め戻されることの多い遺跡の数々にあって、これは貴重な歴史遺産ではないでしょうか。
飛鳥時代の宮跡はここに始まるのです。平城京をも凌ぐ規模で知られる藤原京の出現(694年)まで、592年から数えて100年余りの歳月が流れることになります。その間、推古天皇の豊浦宮から小墾田宮へ、さらには舒明天皇の飛鳥岡本宮と田中宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、そして天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮等々が登場することになります。
遺構のすぐ側には、豊浦寺の講堂礎石がありました。
豊浦宮に居を構えた推古天皇ですが、後にお宮を小墾田宮へと遷しています。603年に今の豊浦寺跡から200mほど離れた場所に遷ったわけですが、その際に桜井寺を現在地に移動させ豊浦寺としました。我が国最古の尼寺と称されたお寺です。
蘇我稲目の邸宅から豊浦宮へ、そして豊浦寺へと変遷を辿ります。
住職のお話によれば、今の向原寺(豊浦寺跡)境内は、かつて広大な敷地面積を誇った豊浦寺の講堂に当たる部分なのだそうです。今の向原寺周辺には集落が形成されており、無闇に発掘調査が行えないようです。おそらく豊浦の集落の地下には、お寺の往時の繁栄を偲ばせる塔、金堂、講堂などの伽藍配置の痕跡が埋まっているものと思われます。
遺構の周囲には木枠が設けられていました。
この木枠が無いと、豊浦宮の遺構に落っこちてしまいますからね(笑) 見学者はくれぐれも注意が必要です。
甘樫丘の麓にある向原寺に辿り着くと、このような案内書きがありました。
向原寺境内地の発掘調査により飛鳥時代最初の推古天皇豊浦宮の遺構、蘇我馬子建立の飛鳥寺に続く2番目の本格寺院である豊浦寺(飛鳥寺の姉妹寺)の伽藍が分かりました。
日本初の本格的寺院は飛鳥大仏で知られる飛鳥寺です。
そして、その飛鳥寺に次ぐ二番目の本格的寺院こそが豊浦寺なのです。
552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から金銅仏や経典が日本にもたらされたと伝えられます。舶来の仏教を嫌う廃仏派の物部氏の圧力もあり、欽明天皇は蘇我稲目に仏像を与えて試しに崇拝させることになりました。稲目は小墾田の向原(むくはら)にあった自宅を寺に改造して、その仏像を祀ったと云います。これが向原寺の起源であり、本格的寺院ではないもののある意味においては、我が国初の ”仏教聖地” と言えなくもありません。
遺構の地下に見られる青い苔の地層。
地表からすぐの所にあるこの地層こそが、飛鳥時代を証明するものなんだそうです。
推古天皇の豊浦宮遺構見学案内。
推古天皇豊浦宮の発掘調査当時に出た遺構を、現状保存で公開しています。見学説明を希望の皆様方は、向原寺に申し出てください。 向原寺住職
私は今回、豊浦宮跡を見学するために豊浦寺跡を訪れたわけではなかったのですが、思わぬ幸運に与りました。ご住職直々のご説明を伺うことが出来、大変ラッキーでした。
向原寺住職と豊浦宮遺構。
まるで相撲の土俵かと思わせるような造りです。
飛鳥寺、豊浦寺、四天王寺と続いていく仏教伽藍のお話を聞きながら、改めて飛鳥の地に眠る歴史の深さに感じ入ります。ご存知のように飛鳥寺は塔を中心とした一塔三金堂の伽藍配置で知られます。近くの川原寺は一塔二金堂であったと言いますが、豊浦寺にも塔は建っており、同じく一塔二金堂の伽藍配置ではなかったかと推測されます。
河原石が敷き詰められていますね。
所々に石が抜けていて、人為的なものを感じさせます。
丸い孔の中に四角い孔が見られますね。
ご住職のお話によれば、この四角い孔は柱を抜き取る際に作られたものではないかとのことでした。豊浦宮から小墾田宮へ遷る際に、その材が抜き取られた跡だというのです。
石敷きを伴う掘立柱の建物跡を目の当たりにしながら、飛鳥の黎明期に活躍した推古天皇や蘇我馬子、さらには聖徳太子のことが頭をよぎります。そう言えば、向原寺の山号は太子山です。飛鳥五大寺の一つにも数えられる豊浦寺は、聖徳太子御遺跡霊場第12番札所にもなっています。聖徳太子の生誕地と言われる橘寺もすぐ近くにあり、仏教黎明期の系譜を学ぶにはうってつけのエリアとなっています。
文様石は須弥山石なのか
豊浦宮遺構の横に文様石という不思議な石造物がありました。
飛鳥の石造物には亀石、亀型石造物、二面石、三光石、マラ石と枚挙にいとまがありませんが、文様石などというミステリーストーンも存在していたんですね。
向原寺本堂横にある文様石。
ガイド中のご住職の手が右側に写っていますね(笑)
石の端に割られた跡のような箇所が見られます。
目の前の石造物は飛鳥石製で、雲形、あるいは山水画像石とも呼ばれるミステリーストーンなんだそうです。
飛鳥資料館へ行けば、古代の噴水・須弥山石を見学することができますが、その須弥山の一部ではないかと思われます。幾つかの石を組み合わせれば、飛鳥資料館にある須弥山石のような石造物が完成するのではないかとのことでした。
石の表面には、指が浮き上がったような文様も見られます。
見れば見るほど、不思議な石造物ですね。
本堂内に飾られていた観音菩薩像の写真。
頭部だけが飛鳥時代で、首から下は江戸時代の作なんだそうです。
盗難の憂き目に遭いながらも、36年ぶりに無傷で向原寺に帰還した仏像です。百済仏の面影を残す尊像ですが、果たしてこの仏像こそが物部氏によって難波池に投げ捨てられた仏像なのでしょうか。そんな歴史ロマンを感じさせてくれる観音様です。
遺構の上にはライトが付けられています。
すっぽりと遺構に蓋をするためなのか、折り畳み式の蓋にロープが掛けられていました。豪雨の時などに、大切な遺構に水が溜まってしまっては大変ですからね。
遺構の東側にも豊浦寺の講堂礎石がありました。
明日香村の豊浦は飛鳥川曲流地に当たります。
近くには和田池もあり、地名説話的には曲(わだ、わた)に由来するものと思われます。「元興寺資財帳」などによれば、豊浦は「等由良」「等由羅」などと表記されています。飛鳥川がカーブを描いて北西へと流れる場所に豊浦寺は位置しています。
推古天皇のお宮跡を見学させて頂きます。
目と鼻の先にある甘樫坐神社の御祭神も推古天皇とされます。おそらく甘樫坐神社の境内も豊浦寺の寺域であったのでしょう。日本仏教の黎明期に、大きな役割を果たした大寺院。そのまた前身が推古天皇の宮殿であったことを覚えておいて下さい。
向原寺(豊浦寺跡)の拝観料は200円です。
推古天皇の豊浦宮遺構見学と、向原寺本堂拝観を合わせて200円を納めることになります。
お寺の駐車場はありませんので、車で見学に訪れる方は近くの甘樫丘駐車場に停められることをおすすめします。公共交通機関をご利用の場合は、近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バス岡寺行きでバス停「豊浦」を下車します。
さぁ、いざ推古天皇の足跡を求めて向原寺へお参りしましょう。