高さ3mにもおよぶ福禄寿(ふくろくじゅ)。
七福神の福禄寿は背の低い神様とされますが、談山神社の総社拝殿に祀られる福禄寿大神はなかなかの大物でした。長頭で長いヒゲをたくわえ、白鶴を従える格好で描かれる神様です。手にする杖には経巻が結び付けられていました。
談山神社の福禄寿大神。
総社拝殿の真正面に堂々と祀られていました。
斉明天皇が仰いだケヤキの福禄寿大神
談山神社福禄寿の歴史をたどれば、遥か斉明天皇の時代に行き着きます。
かつて多武峯の嶺の上に、二本の巨木が立っていたそうです。その御神木の槻(けやき)の傍に、斉明天皇が高殿を建てて祀ったのが始まりとされます。
談山神社の末社・総社拝殿。
建物の入口が開いており、正面の像(福禄寿大神)が見えています。美しい唐破風屋根の下に注連縄が張られ、そこに紙垂が下がっています。新緑の緑が朱色の拝殿によく映えますね。
重要文化財の末社・総社拝殿
寛文8年(1668)の造営。談山神社拝殿を縮小し簡略化した様式で、正面・背面ともに唐破風をもつ美麗な建造物である。内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残り、「山静」の落款も見られる。
右手に持つ杖の上部には、経巻らしきものも確認できますね。
確かに頭が長~い!
中国の道教における長寿神とされ、大きな耳たぶも特徴的です。その年齢は千歳と伝わり、南極老人星の化身とも言われます。
福禄寿大神の信仰
総高3mにおよぶ大神は、福禄寿のお像としては全国屈指の大きさです。このお像は、当地の深山幽谷に自ずから繁茂したケヤキの神木をもって、神の姿を彫り出したものです。私たち日本人は、古来、神聖な山に立つ巨木を神として信仰してきました。
神は天上から天降って、その神木に宿ると信じられたのです。まさに神のお姿を神木に見たのです。『日本書紀』の斉明天皇2年(656)の記録によれば、当地、多武峯の嶺の上に巨大な二本の槻の木(ケヤキ)の神木が立っており、巫女でもあった女帝は、そのほとりに高殿を建てて神を祭ったというのです。これは、ケヤキの巨木が神として崇められていたという明かしなのです。このお像はまさに神木から神が出現した直後の、荒々しくも、慈恵深いお姿をしています。
福(幸福)禄(金運)寿(長寿)を心こめてお祈り下さい。
なるほど、福禄寿の「禄」は金運なのですね。
現世利益にも授かれそうです。
これが狩野永納の壁画でしょうか。
随分歴史を感じさせます。
狩野永納(かのうえいのう)の壁画。
重文・総社拝殿の内側壁面には、松・竹・梅・蘭などの極彩色の壁画が残っています。作者の狩野永納(1631~97)は、山雪の長男として京都に生まれ、しばしば当山を訪れて絵の制作を行いました。当社には『増賀上人行業記絵巻』が残されています。永納は美術史家として有名で『本朝画史』は、わが国最初の絵画史として知られています。(文化財保護のため、社殿に触れたり、廊下に上がったりしないで下さい。)
何とも福々しい微笑みです。
どうやら「左手に宝珠」というスタイルのようです。
それにしても、なぜこんなに頭が細長いのでしょうか?単におでこが広いという範疇では収まり切りません。
談山神社の縁結び絵馬。
藤原鎌足と鏡女王のご夫婦がモチーフです。良縁祈願に訪れる参拝客からも人気の高い絵馬で、神社境内の恋神社で見つけました。
本殿下の拝殿。
その軒下の砂紋様が美しいですね。
権殿へ通じる石段。
初夏を彩る紫陽花が咲いていました。
ケヤキの福禄寿大神。
大きな木像だけに、その存在感は抜群です。
長い頭の理由は何なのか?
ひょっとすると、その由来は ”伏羲と女媧の瓢箪伝説” にまで遡るのでしょうか。
福禄寿と寿老人は合体しているために頭部が二つあるとも言われます。福禄寿の頭部は瓢箪型をしているとも解釈できます。諸説紛々、色々な想像を掻き立ててくれる御姿ではないでしょうか。
七福神お守入りのおみくじ。
1体につき200円を奉納します。
こちらは神廟拝所。
総社拝殿の真ん前にある建物です。
足腰の病にご利益のある如意輪観音様が祀られていました。
大化の改新や蹴鞠で知られる談山神社ですが、福禄寿を始めとする仏像も見所の一つです。談山神社はその昔、多武峯妙楽寺というお寺でした。お寺にまつわるものも多数伝わる神社であることを忘れてはなりませんね。