談山神社の権殿西側にひっそりと佇む社殿。
境内片隅のその祠には「比叡神社本殿」と記されていました。
談山神社末社の比叡神社本殿。
比叡山の比叡(ひえい)かと思いきや、その読み方は比叡(ひえ)神社のようです。すぐ傍らには談山や御破裂山へと続く山道の入口が見えています。藤原鎌足の墓所や大化の改新の談合場所から下って来た所にある社殿をご案内することにします。
飛鳥の大原にあった重要文化財
談山神社境内には国の重要文化財に指定される建物が幾つも見られます。
比叡神社本殿もそんな中の一つで、江戸時代初期に造営された歴史ある佇まいを見せています。
重要文化財に指定される比叡神社本殿。
寛永4年(1627)造営の一間社流造、千鳥破風および軒唐破風(からはふ)付、檜皮葺の小社ながら豪華な様式をもつ。もと飛鳥の大原にあった大原宮で、ここに移築し明治維新までは山王宮と呼ばれた。
増賀上人の墓と伝わる念誦窟(ねずき)から上手には万葉展望台があります。
そこから明日香村の大原へと続いているようなのですが、その大原にあったお宮が談山神社の境内隅に佇みます。
明治維新までは山王宮と呼ばれていたとのことですが、東京赤坂にある山王日枝神社のことが頭をよぎりました。日枝(ひえ)神社の「日枝」は「比叡」を意味しているそうです。山王日枝神社の主祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)ですが、比叡神社本殿の向かって右横には山神神社が祀られており、その相似性が垣間見えます。
重文の比叡神社本殿。
鬱蒼と生い茂る木々を背にしています。
談山神社中興の祖・増賀上人は、世俗を嫌って比叡山から多武峰の地に移り住んだと伝えられます。増賀上人の隠棲の地に祀られる比叡神社。その神社の名前からも増賀上人との関係が見え隠れしますね。
十三重塔と紫陽花。
談山神社の十三重塔も重要文化財に指定されています。
世界でただ一つの木造十三重塔です。その希少性からか、この塔を撮影するために日本全国からカメラ愛好家が集います。梅雨の時期には紫陽花とのツーショットが楽しめますが、春には桜、秋には紅葉、そして冬には積雪と四季を通じて様々な顔を見せてくれます。
談山神社西門の手前に佇む増賀堂跡
談山神社中興の祖と伝わる増賀上人。
「ぞうがしょうにん」或いは「そうがしょうにん」と清音で呼ばれることもある人物で、比叡山の高僧良源の弟子であったと伝わります。法華経に通じており、師である良源の世俗的な側面を批判して多武峰に隠棲することになります。計算されたものだったのか、その奇行ぶりはつとに有名で増賀上人の名を今に伝えています。
談山神社参詣を終え、拝観受付から社務所前の神幸橋を渡り、そのまま右折して急な坂道を登って行きます。かつて談山神社の西門があった場所の手前に、「増賀堂跡」と刻まれる石碑が建っていました。
増賀堂跡。
辺りはひっそりと静まり返り、観光客の声も聞こえてこないような場所です。
増賀堂跡の手水。
びっしりと苔が生していて、鄙びた雰囲気をさらに助長しています。
石段を上った一段高い場所に、お堂の跡らしきスペースがありました。
談山神社はかつて妙楽寺というお寺でした。
談山神社の西門がここからさらに上手にあることを思えば、おそらくこの場所もお寺の境内だったのでしょう。増賀上人にまつわる建物があった場所なのでしょうか。方形の壇上に一本の木が植えられていますが、これとて増賀堂の基壇跡なのかどうか定かではありません。
それにしても美しい。
増賀堂跡そのものよりも、こちらの方が妙に印象に残りました(笑)
再び談山神社の境内に戻ります。
冒頭で比叡神社本殿をナビゲート致しましたが、その向かって左横に祀られる稲荷神社です。
お稲荷さんを表すキツネの像が置かれていますね。
談山神社末社の稲荷神社。
御祭神は宇迦之御魂神、例祭は2月初午日に執り行われているようです。
こちらは比叡神社本殿の向かって右横に祀られる山神神社。
比叡神社の脇を固める祠の一つです。
末社山神神社にも御祭神と例祭日がそれぞれ案内されていますが、文字がボヤけて見えにくいですね。
風雨にさらされる場所だけに、致し方のないことです。
比叡神社本殿や増賀堂跡を訪れて思ったのは、増賀上人の存在そのものだったような気がします。87歳でお亡くなりになられたようですが、今もそのお墓は西門跡から林道に入って行った場所にあります。念誦窟(ねずき)と呼ばれる二段積みの円墳(石墓)で、その直径は4mにも達します。
談山神社に伝わる「増賀上人行業記絵巻」も必見ですので、ご興味をお持ちの方は奈良女子大学附属図書館を訪れてみてはいかがでしょうか。