喜光寺の金堂横に会津八一の歌碑が建立されていました。
歌人であり、書家であり、東洋美術史学者でもあった会津八一の歌。
阿弥陀如来坐像が祀られる金堂向かって左横に、八一の歌が刻まれています。
「試みの大仏殿」と呼ばれ、東大寺大仏殿のサンプルとされる金堂の真横に当たります。大正年間にこの場所を訪れた会津八一は、その荒廃ぶりに心を打ちひしがれたようです。
喜光寺の荒廃を伝える「野鼠のすだくを聞けり」
会津八一は自身の歌の解説に当たり、喜光寺の荒廃ぶりを ”昼も野鼠のすだくを聞けり” と表現しています。
すだく?
「すだく」とは一体何を意味する言葉なのでしょうか。さっそく辞書を引いてみると、「集(すだ)く」~集まる、群がるという意味があるようです。そこから後世に誤って、虫などが多く集まって鳴くことも意味するようになりました。
歌碑の横には石像が並びます。
すだくの言い回しですが、この他にも「蛙の声すだくなり」、「雀の声ぞすだくなる」などと表現したようです。
野鼠のすだく境内とは、一体どのような惨状だったのでしょうか。
喜光寺は行基創建のお寺であり、新たに行基堂も建ち、少しずつ境内が整いつつあります。
会津八一歌碑
ひとりきてかなしむ てらのしろかべに 汽車のひびきの ゆきかへりつつ
歌集『南京新唱』所収。「喜光寺」の題がある
会津八一は大正10年と11年の秋に喜光寺(菅原寺)を訪れている。
一人来て、荒廃した寺を目の当たりにし、悲しさに心が打ちひしがれてこの歌を詠んだ。
八一は『自註鹿鳴集』に、「この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず境内には所狭きまでに刈稲の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。(略)」と記している。
あいづやいち(1881~1956)新潟市出身
号は秋艸道人 渾齋 八朔
歌人 書家 東洋美術史学者 早稲田大学名誉教授
喜光寺に会津八一の歌碑を建てる会
喜光寺金堂。
金堂前に並んだ鉢には、夏になると蓮の花が咲きます。
遥か往時の寺の白壁に、汽車の響きが行き交える情景を想います。連綿と受け継がれる奈良の歴史の中にあって、様々な時代が積み重なっていることに改めて気付きます。
喜光寺へのアクセスですが、近鉄橿原線尼ヶ辻駅から徒歩15分となっています。