奈良坂の途上にある般若寺楼門。
奈良から京都へと抜ける般若坂を登って行くと、程なく右手にコスモスで有名な般若寺が佇みます。お寺の拝観入口は別にあり、楼門の中を通って境内に入ることは出来ません。あくまでも般若寺の象徴としてそこに建ち続けています。
屋根の反りが美しい般若寺楼門。
国宝に指定される見目麗しい建築物です。
奈良市内観光においても、般若寺まで足を運ぶことはごく稀です。この日は見頃を迎えたコスモスを観賞するために訪れました。東大寺転害門からさらに北へ、北山十八間戸や夕日地蔵に立ち寄りながら般若寺を目指します。
鎌倉時代の国宝楼門は二層入母屋造
楼門の「楼」という字には、高層の建物というニュアンスが含まれます。
俗に楼門と言えば、私たちは二階建ての門を思い浮かべます。二階建ての上層部分だけに屋根を持ち、その周囲に欄干を配した門のことを楼門と言っているのです。楼門に鐘が付いていれば、「鐘楼門」と言ったりもしますよね。
コスモスと般若寺楼門。
境内の本堂や十三重石宝塔の周りにも満開のコスモスが咲き誇っていました。般若寺の拝観料は500円ですが、境内に足を踏み入れなくても楼門前のコスモスなら楽しむことができます。
般若寺楼門は1897(明治30)年に「古社寺保存法」により(旧)国宝に指定され、戦後も「文化財保護法」(1950)施行と同時に再び「国宝」に指定されました。
鎌倉時代、叡尊上人らによる文永(1267頃)の際、文殊金堂と十三重石塔を囲む廻廊の西門として建てられ、かつての境内の真ん中を貫く京街道に面して建っています。室町・戦国時代には度重なる合戦の渦中におかれながらも奇跡的に兵火をのがれました。楼閣づくりという意味の「楼門」建築では日本最古の遺構です。はばたく鳥のつばさのような軽やかな屋根のそりをもち、小さいながらも均等のとれた姿は「最も美しい楼門」とたとえられています。全体の伝統の和様式で、蟇股(かえるまた)や屋根を支える木組の肘木(ひじき)などに新しく伝来した「大仏様」(だいぶつよう、天竺様とも)が折衷され、二階の扉や欄干などにも軽快で繊細な感覚が見られます。明治41年と昭和33年の大修理が行われましたが、現在も各所に傷みが進行し修理が必要となっています。
今も境内では、楼門修復のための勧進が行われています。
前回の修理が昭和33年ですから、そろそろ手を入れる必要があるのも頷けますね。
石標に「般若寺楼門」と刻みます。
般若寺は遥か飛鳥時代の創建と伝えられますが、その歴史は度重なる戦火との闘いでした。鎌倉時代になってから、ようやく西大寺の高僧・叡尊によって再興を遂げています。般若寺の宗派は西大寺と同じ真言律宗とされます。
植村牧場のソフトクリームを食べながら楼門を堪能
般若寺に来ると、いつも植村牧場に立ち寄ります。
道を挟んで、国宝建築の真ん前に牧場があります。実際に牛が飼われていて、間近に牛たちを見学することもできます。俄かには信じがたい立地ですが、この辺りがまた奈良の懐の深さを表しているような気がしますね。
植村牧場のソフトクリーム。
お値段は350円です。搾りたての新鮮な牛乳からソフトクリームの原液が作られているそうです。巷のソフトクリームに比べれば、確かに濃厚な味わいです。ペロリと頬張ったソフトクリームの向こうに、般若寺の楼門が見えています。
乳牛の看板と般若寺楼門。
ソフトクリームを頬張りながら国宝を愛でることが出来るとは・・・生活道路沿いに建つ楼門ですから、庶民との距離がいかに近いかがお分かり頂けると思います。
こちらは境内から楼門を望みます。
う~ん、境内からも電線が目に付きますね(;^_^A
手前には百日紅の木が植えられていました。
この角度からも、均整の取れた美しい姿がよく映えます。
コスモスが咲き乱れる境内から楼門を正面に捉えます。
奈良坂を挟んで、正面にはコスモスハイツという名前のアパートが建っています。ふと思ったのですが、この楼門は二階部分に上がることが出来るのでしょうか?構造上の問題はなさそうに見えますよね。
反対の道路側からだと、楼門を額縁にして十三重石宝塔が垣間見えます。とても絵になる光景で、道行く人もつい立ち止まってしまうのではないかと思わせます。かつての般若寺は大伽藍を配し、寺域は今よりももっと広かったと言います。
楼門の中。
蟇股の意匠が見られますね。
以前から、なぜこの門を出入口にしていないんだろう?
と思っていたのですが、稀有な国宝建築物を守るための策なんだろうなと思います。傷みの進行を少しでも遅らせるために取られた措置。そう考えるのが妥当でしょう。
カラフルで可憐なコスモスが咲いています。
秋のコスモスはあまりにも有名ですが、般若寺では春の山吹、初夏の紫陽花なども楽しむことができます。冬の水仙の時期にも訪れたことがありますので、一年を通して花を愛でることができるお寺のようです。
伽藍消失と平重衡供養塔
般若寺の歴史を語る上で、治承4年(1180)の南都焼討ちを外すわけにはいきません。
平清盛の子・重衡を大将とする大軍が東大寺などを焼き払った歴史的大事件。南都焼討ちの際、般若寺も全ての伽藍を焼失してしまいました。全てが無に帰した般若寺・・・そんなショッキングな出来事を乗り越えて、焼討ち後に建造されたのが楼門でした。
南都焼討ちの後、鎌倉時代に建てられた楼門。
以前に般若寺にお参りした時には気付かなかったのですが、この楼門の裏手に”敵”であるはずの平重衡の供養塔が建てられていました。
平重衡供養塔。
楼門を入ったすぐの所に祀られています。
なぜ憎しみを抱いてもおかしくない重衡の供養塔があるのでしょうか。平家物語によると、南都焼討で火が放たれたのは般若寺だったようです。東大寺や興福寺ではなく、般若寺に火が放たれ瞬く間に燃え広がったと伝わります。
平家滅亡後に、源氏側に軟禁されている重衡の引き渡しを強く要求した南都の僧たち。
しかし、生きたまま重衡を奈良の町に入れるのは癪に障ります。そのため、重衡は木津川畔で斬首され、般若寺の門前でさらし首にされたと伝えられます。なるほど、そういった理由でこの場所に供養されているのでしょうか。
境内に咲くコスモスは、そんな歴史など知る由もないでしょうね。
境内に並び建つ笠塔婆も、南都焼討の後に建てられました。復興の姿を見ることのできる私たちは幸せです。
般若寺名物のコスモスですが、その種子が日本に伝わったのは江戸時代末期です。
南都焼討からさらに歴史を下り、江戸の代に日本に伝来してきたコスモス。その可憐な花が般若寺境内を彩ります。目の前の楼門も平重衡の暴挙を知りません。楼門もコスモスも、南都焼討の歴史を知らないのです。不思議な時が折り重なり合い、今の般若寺が形作られているのですね。