影は時に「光そのもの」を表します。
光があるから影がある。影は単独では存在しえないものです。
表裏一体の光と影ですが、日や月の光そのものを影と表現することもあります。月影などはその良い例ではないでしょうか。月影とは地上に落ちた影のことではなく、月の光そのものを言い表しています。
御影(みえい)とは尊像のこと。唐招提寺御影堂には国宝の鑑真和上坐像が納められています。普段は鑑真さんの尊像を拝観することはできず、毎年6月6日の開山忌舎利会の際に前後3日間だけ御影堂内が公開され、鑑真和上坐像を拝ませて頂くことができます。
御影堂の「影」は実像なのか
御影堂の「影」は光であり、実体を伴った鑑真和上その人なのかもしれないという仮説が浮かび上がります。
月影が月光であるのならば、御影(みえい)も偉人を偲ばせる実像なのかもしれないという発想が頭の中に浮かびます。全国各地の社寺にも弘法大師御影堂なるものが存在しています。あそこにも弘法大師生き写しの尊像が納められている。そこには空海ご自身が、つまり現し人(うつしびと)がいらっしゃるのではないか。そんな気さえして参ります。
御影堂前の唐招提寺スマートガイド。
スマートガイドに、AR(Augmented Reality 拡張現実感)技術を利用したGnG(GETandGO)アプリケーションが提供されています。近未来のAR技術が、歴史ある律宗総本山の唐招提寺にも採用されていました。
唐招提寺開山堂。
本坊から東の御影堂へ向かう途中にあるお堂です。
普段は参拝できない御影堂の鑑真和上坐像ですが、こちらの開山堂に於いて鑑真大和上御身代り像を拝ませて頂くことができます。
身代り像は参拝客に毎日開放されており、誰でも好きな時に鑑真和上のお姿に触れることができます。そういう意味では、こちら開山堂の鑑真さんこそ、まさしく「影」を表す尊像なのかもしれませんね。
唐招提寺御影堂の石畳。
石畳の模様を見てみると、正方形の真ん中に一本の線が入っています。まるで光と影を分けているかのようなデザインです。その周りには丸石が散りばめられ、鑑真和上の魂が飛び交っているかのような印象を受けます。
御影堂の鑑真和上坐像は「現し人(うつしびと)」、つまり生きている人なのでしょうか?
勿論、その答えはノーです。現実に肉体は滅びているわけですから。しかしながら、その魂は私たち日本人とも密接に繋がり合いながら、とこしえに生き続けているのかもしれません。
国宝の鑑真和上坐像は細部に至るまで緻密に造り上げられた尊像です。
瞼の腫れや髭に至るまで、実に細かく再現されています。人は死んでも髪の毛や爪は伸び続けると言います。細かく髭を描写することによって、この尊像に命を吹き込もうとしたのかもしれません。在りし日の鑑真さんの面影を偲ばせる国宝を、いつかはこの目で見てみたいと思います。
ここで、古代の人たちにとっては、面影の「影」は決して虚像ではなかったことを改めて知る必要があります。
それは実像だったのです。頭に思い浮かんだその人自身が、まさしく今ここに乗り移ったと信じていたのです。それが「面影」です。実像と虚像の区別がなく、頭の中でボーダレスに繋がっていたのです。ファンタジーワールドと言ってしまえばそれまでですが、現在使われている日本語にも随所にそのことがうかがえます。
移動を表す言葉に実体を観る
「うつしびと」の「うつし」とは、この世に実在している・現存しているといった意味の形容詞です。
現在私たちは、移す、映す、写す、遷すなどの言葉を使っていますが、これらの言葉も全て出所は同じなのです。鏡に顔を映す、机を和室に移す、写真を写す、都を遷す等々、全てコピーなどではなく実体そのものが場所を移動して乗り移るといったニュアンスでしょうか。
「風邪をうつす」なんていうのは、その最たるものだと思われます。
ウィルスが自らを複製して増殖していく過程は、まさに生き写しです。
唐招提寺御影堂の屋根瓦。
十六菊花紋でしょうか。花弁が十六に分かれ、日本を象徴する家紋としても知られます。
うつしびとを祀る唐招提寺御影堂。
「祀る」という言葉にも、不思議な意味合いが隠されています。
夏休みになれば日本各地で祭りが賑やかに催されますが、「祭り」「祭る」という言葉の成り立ちを考えれば、「待つ+る」であることが分かります。祭は神事ですから、”神様が出現するのを待つ” ことが祭りなのです。鑑真和上坐像を祀るということは、取りも直さず鑑真和上を待っていることに他ならないのではないかと思います。
唐招提寺御影堂からは、様々なイマジネーションの膨らみを感じます。