相撲神社の大坂山口神社(穴虫)を訪れました。
葛城から香芝エリアにかけ、相撲ゆかりの地が散見されます。大相撲桜井場所が10月に開催予定ですが、奈良盆地の東西で相撲熱の高まりを感じますね。
大坂山口神社(穴虫)の扁額。
式内社の文字と共に、割拝殿(延享元年再建)に掲げられていました。
大坂山口神社の最寄駅は近鉄大阪線二上駅です。逢坂と穴虫に二社あり、どちらも周辺道路は入り組んでいます。今回私は中和幹線沿いの商業施設で買い物をし、そのまま駐車場を利用致しました。神社周辺には坂道や細い路地が通り、まるで迷路のようです。初めてのお参りは歩いて行くのがおすすめです。
疫病除けの崇神伝承が残る大坂山口神社(穴虫)
宮相撲の桟敷席(観覧席)が境内に残ります。
近年までは土俵もあったようです。明治時代に活躍した穴虫出身の力士「大の松為次郎(だいのまつためじろう)」が、大坂山口神社で引退興行を行いました。晩年は穴虫に相撲部屋を作り、後進の育成に当たったそうです。
大坂山口神社(穴虫)の本殿。
銅板葺きの三間社流造ですね。
御祭神は三柱で、大山祇命、須佐之男命、天児屋根命を祀ります。
大坂山口神社(穴虫)の桟敷席。
石垣で組まれた観覧席です。上下に移動する小さな石段も付いていますね。段々の桟敷席の前が広く空いており、かつては土俵があったものと思われます。
馬場組の記念碑。
相撲の軍配を刻む石碑ですね。
馬場組を牽引していたのが大の松為次郎だったようです。番付は幕下止まりでしたが、地元で愛されるお相撲さんでした。神社周辺の電柱には「ババ」の字名が散見され、馬場組の由来になっているのかもしれません。
近鉄大阪線二上駅。
駅の南口にどんづる峯と二上山登山口が案内されています。
穴虫の大坂山口神社へ向かうには、この道標に従いません。近くに道案内が無く、少々迷いました。アクセスの際、いくつかポイントがありますのでご案内しておきます。
大坂山口神社の周辺地図。
近鉄二上駅の線路をはさみ、北と南に大坂山口神社の二社が分かれていますね。北側が大坂山口神社(逢坂)で、南側に大坂山口神社(穴虫)が鎮座しています。
穴虫の大坂山口神社南方に安遊寺があり、さらにその南西に「ハス池」と案内されています。どうやらその辺りにゴボ山があり、国宝指定の威奈大村骨蔵器が出土しているようです。
穴虫の大坂山口神社へ向かうアクセスルート。
駅前のコンビニの右手を抜けて行きます。ここから先は、右へ旋回していくイメージです。
穴虫自治会のホース格納箱のある辺り。
そこを右へ曲がります。右手には下村たたみ店があります。左奥に見えている社叢が大坂山口神社(穴虫)の背後の丘陵です。道なりに進み、左折すれば目的地に到着します。
最初は間違って、直進してしまいました。安遊寺に迷い込み、引き返してやり直しました。
左折ポイント。
道の先に大坂山口神社の鳥居が見えています。
大坂山口神社の石鳥居と社号標。
左の建物は宗教施設のものでした。石段が続き、かなり高所に祀られているようです。
大和から河内に至る入口付近に鎮座しています。
穴虫峠を越えれば、もうそこは大阪府です。かつては牛頭天王社(祇園宮)と称された穴虫の大坂山口神社。祭神に名を連ねるスサノオノミコトは神仏分離の名残でしょう。疫病除けの神であることは、山添村の神波多神社で知りました。
桟敷席前の広い空間。
峠には邪悪なものの侵入を防ぐ役割があります。
疫病除けの神が峠付近に祀られるのも、地理的に納得がいきます。大坂山口神社に残る崇神天皇の伝説が興味深く、ここにご紹介しておきます。
『日本書紀』の記述です。
崇神天皇9年3月(西暦380年)、国中に疫病が蔓延しました。
悩み苦しんだ天皇の夢に神人が現われ、「赤盾八枚、赤矛八竿をもって墨坂の神を祀り、黒盾八枚、黒矛八竿をもって大坂の神を祀れ」と告げたと云います。
その教え通りに祀ったところ、あれほど猛威を振るった疫病は終息し、天下泰平の世が訪れたそうです。三輪山に大物主を祀った話ともリンクしますね。
狛犬と桟敷席。
アリーナ形式でないのも、どこか古めかしさを感じさせます。
割拝殿の先にも石段が続いています。
黒盾八枚、黒矛八竿をもって大坂の神を祀った・・・除疫のご利益を持つ神が、高所から集落を見守っていたのでしょう。崇神伝承の神社であることにも感銘を覚えます。
割拝殿に掲げられた奉納絵馬。
「穴虫東西氏子中」と記します。
御存知のように相撲は神事です。全国各地に“相撲神社”と称される神社があり、東京両国の野見宿禰神社や桜井市の相撲神社はよく知られます。香芝市内に目を移せば、野見宿禰に敗れた当麻蹴速ゆかりの腰折田伝承地がありますね。
鹿の絵馬も奉納されていました。
さすがは奈良といったところですが、大坂山口神社の祭神・天児屋根命に因んでいるのかもしれません。アメノコヤネは春日神ですからね。
壇上にそびえる御祭神。
急傾斜の先の本殿を仰ぎます。
正面の柱間が3つある三間社流造の本殿。
本殿前にも木製瑞垣があり、手厚く祀られている様子がうかがえます。ここを訪れる前、逢坂の大坂山口神社にも参拝しましたが、本殿と対峙することは出来ませんでした。穴虫に比べ低所に祀られています。お参りした印象では、穴虫の方が“格上感”を漂わせます。
左右に境内社があります。
摂社として琴平神社と市杵嶋神社が祀られているようです。
虹梁の上に三つの蟇股が並びます。
おそらく真ん中が大山祇命だと思われます。
銅板葺の屋根は流麗な流造です。
妻に下がる懸魚も三つですね。
本殿から割拝殿、穴虫の集落を見下ろします。
詳細な案内板が出ていました。
祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)
式内社(しきだいしゃ)大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座されます。
本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の銅板葺(ぶ)きで、文化13年(1816)の再建とされますが、寛永2年(1625)以来の棟札(むねふだ)が残されています。それには、背後の山の石巌(せきがん)を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺(ぎおんぐうじ)とみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。拝殿は間口五間、奥行ニ間の割拝殿で、棟札によると延享元年(1744)の再建になります。また、平成元年三月には、本殿屋根を銅板葺きに改修、あわせて拝殿脇殿、上段の塀、手水舎などが新築されています。
近世の『大和志(し)』には、「在穴蒸村 今称牛頭天王」とみえ、牛頭天王社(祇園宮)と称されていたことがわかります。秋の大祭には、この牛頭天王に奉納する宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。拝殿には、文久2年(1862)や明治19年(1886)の奉納板番付があり、境内には馬場組記念碑や石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていました。この馬場組をリードしたのは、大阪相撲で活躍した地元出身の力士、大の松為次郎(1859~1921)で、大正4年(1915)境内で引退相撲を行ったあと、素人相撲の世話役として活躍されました。
近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組が『竹園(たけぞの)日記』などにみえ、周辺の墓地には古い力士墓があります。二上山麓の村々では相撲が大変盛んであったことがわかります。
なお、式内社大坂山口神社は、当社とその北東約600mに位置する逢坂のニヶ所に所在し、ともに式内社と称しています。
穴虫の大坂山口神社から南西方向、国道165号寄りに大の松為次郎の墓碑があります。
馬場組の記念碑。
2017年に公開された映画『天使のいる図書館』のロケ地にもなっていたようです。小芝風花や横浜流星が出演した映画ですね。
幅広い年代層に奈良県の魅力を広めたい。
そんな思いにこたえてくれるのがフィルムコミッションです。SNS全盛の時代ですから、ロケ地の誘致は最も分かりやすいアプローチだと思います。
この桟敷席から大相撲の取組を観てみたいものです。
神社前に駐車場がありました。
おそらくこれは大坂山口神社のものではありません。注意が必要ですね。
奉納瑞垣から垣間見える境内。
「ババ」。
神社周辺には馬場という字が多く見られますね。
私の住む三輪の西方にも「馬場先」があり、大神神社のお膝元には「馬場」が残ります。馬に騎乗してお参りした名残なのでしょうか。「下馬」で馬から降り、歩いてお参りしたのはご主人です。そのご主人の帰りを待ちながら四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせた従者たち。その四方山話が “下馬評” の語源にもなっていると聞きます。
穴虫と言えば、国宝・威奈大村骨蔵器です。
江戸時代の明和年間(1770年頃)に穴虫の山中で発見された。高台付の球形の金銅製容器の蓋に、威奈大村の経歴をまとめた墓誌銘が391字にわたって刻まれている。史料上及び美術工芸史上貴重な資料であることから国宝に指定され、現在四天王寺の所蔵で京都国立博物館に保管されている。
近鉄二上山駅の南方には専称寺(せんしょうじ)が案内されています。
専称寺には香芝市内最古の木造十一面観音菩薩立像、木造阿弥陀如来立像などが祀られているようです。
大阪のベッドタウンの印象が強い奈良県香芝市。比較的大阪に近く、奈良県民からすれば都会的なイメージです。歴史的な神社仏閣や遺跡は少ないだろうと思っていたのですが、蓋を開けてみれば色々ありそうです。また機会があれば、訪れてみようと思います。