相撲の歴史にその名を刻む野見宿禰(のみのすくね)。
東京の両国に、野見宿禰を祀る野見宿禰神社が鎮座しています。
両国国技館からも程近く、相撲の街を見守り続けるお社として篤く信奉されています。
墨田区亀沢にある野見宿禰神社。
日本書紀によれば、今から約二千年前の垂仁7年7月7日、奈良県桜井市穴師のカタヤケシに於いて初の天覧相撲が執り行われたとあります。この時の勝者が野見宿禰でした。当麻蹴速(たいまのけはや)に勝利した宿禰は領地を与えられることになります。
日本最初の勅命天覧相撲と、そこに名を残した野見宿禰。
新横綱の神前土俵入りが披露されるお社
野見宿禰神社は、新しく横綱が誕生した際に土俵入りが行われる場所としても知られます。
野見宿禰神社のような小さな境内で、大きな横綱が土俵入りを披露するのかと思うと意外な気もするのですが、それだけ由緒ある神社という証しです。
野見宿禰神社の石鳥居。
北斎通りから回り込んで、神社の東側に出ると鳥居が建っていました。ここが本来、正面入口だと思われるのですが、鳥居の手前には柵が設けられていました。早朝参拝に訪れたのですが、北斎通りに面した北側が空いていたので、そこから入ることに致しました。
野見宿禰神社の由緒。
かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治18年(1885)に親方の高砂浦五郎が、津軽家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが、この神社の始まりです。
石垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会の神事が行われます。
境内には、昭和27年(1952)に相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基には、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸剛以降の名前が刻まれています。
野見宿禰神社の見所の一つに ”歴代横綱の石碑” がありますが、どうやら二基建立されているようです。
時代を経るごとに次々と横綱は誕生していくわけですから、いつか三基目の石碑が建立される日も来るのかもしれません。かつて「大阪太郎」の愛称で親しまれた横綱朝潮の名前が、一基目のしんがりを務めているようです。
財団法人日本相撲協会の名が刻まれます。
野見宿禰神社は日本相撲協会の管理下に置かれています。
写真をご覧頂いても、決して広い場所でないことはご想像頂けるものと思われます。まさにこの場所で、横綱鶴竜の土俵入りも奉納されています。その模様がYouTubeで紹介されていましたので、ここに引用致します。
歴代横綱の石碑に見る贔屓力士
野見宿禰神社参拝の際は、是非歴代横綱の石碑も見学しておきましょう。
相撲ファンであれば好きな力士の名前を見つけることが出来るでしょう。あるいは相撲ファンでなくとも、知っている力士の名前をそこに見つけることが出来るのではないでしょうか。何と言っても相撲は国技です。日本人なら誰しも一度は聞いたことのある力士の名前が刻まれています。
野見宿禰神社の歴代横綱石碑。
石鳥居のすぐ裏手、手水舎に向き合うよな格好で建立されています。
ズラリと並ぶ歴代横綱の名前。その台座の巨石は苔生しており、歴史を感じさせるモニュメントでした。
歴代横綱の石碑。
所在地 墨田区亀沢二丁目八番十号 野見宿禰神社内。
”玉垣には、力士や相撲関係者の名前が刻まれており、今でも東京での本場所前には、必ず日本相撲協会の関係者が神事を執り行うなど、相撲界が信仰している神社です”。
境内を取り囲む玉垣にも、力士や相撲関係者の名前が刻まれていることが案内されます。
野見宿禰神社の北側には、北斎通りが東西に通っています。浮世絵師で知られる「葛飾北斎生誕の地」にも程近く、神社周辺には相撲部屋や史跡が数多く見られます。都営両国駅を下車して、北斎通りを東へ徒歩数分ほど進めば、右手に玉垣に守られた野見宿禰神社が見えて参ります。
野見宿禰神社の手水舎。
拝殿向かって右側にありました。
案内の通り、第46代横綱朝潮太郎で終わっていますね。
おや?第45代横綱若乃花勝治の名前だけが金色に輝いています。なぜでしょうか?
栃若時代を築いた栃錦の名前も確認できますね。回向院へと続く国技館通り沿いにも、栃錦・若乃花・朝潮の手形を見ることができますので、どうぞご参照下さい。
二基目の歴代横綱石碑。
一基目の石碑の右側に建てられていました。
下の方がごっそり空いているのが分かります。これから誕生していく横綱の名が、この空スペースに刻まれていくことになります。
第47代横綱柏戸剛を筆頭に、ずらりと歴代横綱が並んでいます。
うん?ここでも大鵬と隆の里の名前だけが黄金に塗られています。最近お亡くなりになられた力士の名前を意味しているのかな?とも思ったのですが、北の湖敏満の名前を見るとどうもそうではないようです。その理由が知りたいところですね。
赤色と金色の違い。
ひょっとすると、時間が経過すると金色が剥げ落ちてくるのかもしれませんね。
つい先日には、第58代横綱の千代の富士貢氏がお亡くなりになられました。前褌(まえみつ)を取って一気に突っ走る相撲が脳裏に蘇ります。ウルフの愛称で親しまれた大横綱のご冥福をお祈り致します。北の湖や千代の富士の名前も、もうすぐ金色に塗り変えられるのかもしれません。
野見宿禰神社の狛犬。
子どもの狛犬がいますね、子取り狛犬という種類でしょうか。
向かって右側に陣取る阿形の狛犬は、鞠のようなものを足の下に敷いていました。こちら吽形の狛犬には子供が配されています。
す~っと左に目を移していくと、そこには現在の大相撲界を支える横綱の名前が!
今思えば、第66代横綱に当たる3代目若乃花以降は日本人横綱が誕生していないんですね。4代続けてモンゴル人横綱が誕生していることになります。稀勢の里に対する期待が膨らむのも分かります。この9月場所は、稀勢の里にとって綱取りの場所になります。この両国の地で決めてほしいですね。
野見宿禰神社の拝殿右横奥に祀られるお稲荷さん。
ご利益はやはり、商売繁盛といったところでしょうか。
横綱が奉納した自然石の手水舎
今回、野見宿禰神社を参詣して気付いたのが、境内に散らばる磐座の多さです。
果たしてこれを磐座と表現していいのかどうかも分かりませんが、由緒正しい神社の境内です。普通の石ころにしては何か意味深なものを感じるのです。
境内の磐座。
何やら割れ目のようなものが入っていますね。手前の石などはハート形に見えなくもありません。ちょっと左側が欠けていますが(笑)
ゴロゴロと境内に置かれています。
磐座はよく神様の依代(よりしろ)とされます。ヨリシロは神様が降りてくる場所です。私たち人間は穢れているためでしょうか、神様がなかなか直接降りてくることはありません。その代わりに、ヨリシロとなるものに降臨されます。
境内の稲荷社には、お約束のキツネの姿も見られました。
計4頭もの狛狐が稲荷神を守護しています。
境内片隅に配される石の数々。
これらの石群はただただ、そこに置いてあるだけなのかもしれません。
しかし、「岩」というだけでなぜか反応してしまう自分が居ます。
第31代横綱常ノ花寛市が奉納した自然石。
手水舎の御手洗場において、磐座群の最たるものを見たような気がします。ゴツゴツとした感じの、いかにも荒々しい雰囲気を醸す自然石です。清水は満たされていませんでしたが、その分、ありのままの姿が拝見できて良かったです。
見れば見るほど不思議な岩です。
まさかこれは陰陽石?そう思わせるに十分な空気が辺りには漂っていました。
本当に小さなお社です。
奈良県にある大兵主(だいひょうず)神社の「カタヤケシ」。その神域において野見宿禰が戦ったという歴史は、彼が ”相撲の始祖” と言われる所以ですね。
境内から手水舎、鳥居を見ます。
昭和37年10月6日、奈良の大兵主神社では一大イベントが催されました。
日本相撲協会の時津風理事長が祭文を奏上し、幕内全力士が参列する中、柏戸・大鵬の両横綱がカタヤケシ(現在の相撲神社)で土俵入りを奉納したのです。時は下って、平成25年7月7日には、相撲神社に「勝利の聖 野見宿禰」記念碑が建立され、日本相撲協会から当時の広報部長・八角親方も参列なさいました。
石鳥居に「相撲茶屋組合」の文字が刻まれます。
大相撲観戦でよく「お茶屋さん」って言葉を聞きますが、組合も存在していたんですね。
お茶屋さんは相撲案内所のことで、大相撲会場では座席へ案内してくれたり、飲食の注文を取りに来てくれたりします。
鳥居のすぐ背後にはビルが建っています。
都会の真ん中に鎮座する野見宿禰神社。
奈良県桜井市の相撲神社・大兵主神社が自然に満ちた場所にあることを思うと、やはりここは東京都だなと感じさせます。
玉垣に刻まれた名前。
時津風定次、理事一同と書かれていますね。
時津風定次と言えば、大相撲界に燦然と輝く69連勝の偉業を成し遂げたあの双葉山のことです。全勝優勝も8回を数えたと言います。何事にも動じない木鶏(もっけい)たらんと、理想の横綱像を追い求め続けた偉大な横綱です。白鳳関も尊敬してやまない横綱ですね。引退後は時津風を襲名して理事長も歴任なさいました。現在の時津風部屋は、芥川龍之介文学碑のすぐ西側にあります。
「時津風定次」、この名前を目にすることが出来ただけでも野見宿禰神社を訪れた甲斐があります。
これは野見宿禰神社の御神紋でしょうか。
その形から言って、梅の御紋ということでいいのでしょうか。それにしても、あまり見かけない紋ではありますね。
毎年1月、5月、9月の東京場所になると、両国国技館で相撲観戦を楽しむ人も多いでしょう。
相撲観戦のチケットを購入したら、相撲の神様が祀られる野見宿禰神社のことを調べてみてはいかがでしょうか。国技館と野見宿禰神社は距離的にもそんなに離れていません。どちらもJR総武線の線路北側に位置し、徒歩でアクセスできる場所にあります。