以前から気になっていたカヅマヤマ古墳の場所。
飛鳥初の磚積式石室として注目を集めた古墳です。
まほろばキッチンへ買い物に行ったついでに、久しぶりに橿原総合庁舎の屋上庭園へ向かいました。真冬のため、特に万葉花を楽しむわけでもなく、ただぼんやりと条坊図の舞台に視線を落としていました。藤原京当時の地図と、現在の地図が重なり合った ”今昔地形図” です。
屋上庭園からの展望。
東方の三輪山を望みます。
カヅマヤマ古墳ですが、大正時代刊行の『高市郡古墳誌』には「カヅマ塚」として紹介されているようです。
結晶片岩を使った方墳!真弓崗の終末期古墳
真弓崗には重要な古墳が集まっています。
牽牛子塚や束明神は有名ですが、そもそもカヅマヤマ古墳の存在を知るきっかけになったのはマルコ山古墳でした。マルコ山古墳の近くにカヅマヤマ古墳という古墳がある。そんな話を聞いて、俄然興味が湧いてきました。ところが、現在は見学することもできず、果たしてどこにあるのだろう?と疑問に思っていた矢先でした。
カヅマヤマ古墳の地形図。
マルコ山古墳のすぐ近くですね。
カヅマヤマ古墳からさらに狭い地形を上がって行くと、その奥には「地之窪」が見えます。
反対側の佐田には、草壁皇子を葬る束明神古墳が表示されています。吉野、紀伊方面へ通じる紀伊路もすぐ傍を通ります。「条坊図の舞台」は面白いですね、地形図の上を自由自在に移動することができます。まるでガリバーにでもなったよう!
カヅマヤマ古墳は終末期の古墳で、墳形は石舞台古墳と同じ方墳のようです。
特筆すべきはその石室で、板状の石を積み上げた磚積式石室でした。吉野川の結晶片岩で築かれた磚積墳であったことが、カヅマヤマ古墳の存在を際立たせています。玄室中央から南側部分が2mほど滑り落ち、地震による地滑り跡ではないかと推測されています。
屋上庭園には万葉歌が掲示されていました。
県内を流れる寺川を題材にしています。
歌の中の「壮年時(をざかり)」は読んで字のごとく、男盛りを意味するようです。
解説も付いており、古代人の感性に寄り添うことができます。
この日は風が強く、かなり肌寒かったです(^-^;
三輪山の歌ですね。
かつては紅葉の名所だったのでしょうか。
「祝(はふり)」とは、神主・禰宜より下級の神職を指します。神に仕え、”たまふり”をした人を祝(はふり)と言ったようです。実際に三輪山を遠望しながら味わう万葉歌もいいものですね。
遥か北方に目をやれば、若草山の緑が見えます。
こうしてみると、奈良盆地も意外に小さなものです。
こちらは橿原市の宣化陵付近。
山の尾根が伸び、その先には益田池堤跡が確認できます。
天皇陵周辺の池も、如実に再現されています。
今回は屋上庭園でカヅマヤマ古墳の位置を再確認しました。また近いうちに、真弓岡へ出かけてみようかなと思います。