橿原市大軽町の法輪寺を訪ねました。
飛鳥時代創建と伝わる軽寺のあった場所で、今は隣の春日神社と共にひっそりと息をひそめていました。
法輪寺(軽寺跡)。
剣池の南西方向のちょっとした高台にあります。
軽寺の創立者は賀留大臣玄理(かるのおとどくろまろ)で、推古天皇の御代に、唐から持ち帰った薬師如来像を本尊として建立されています。
金堂及び講堂の土壇!法隆寺式のお寺
法輪寺からは古瓦が出土しているようです。
飛鳥時代後期、もしくは白鳳時代前期と目される古瓦で、軽寺の創建年代の謎を解く手掛かりとなっています。
「軽の巷」で知られる古代地名の軽。市が出て大変賑わった場所であり、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と軽大娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)の悲恋物語も伝わります。
法輪寺の寺号標。
山号は「大軽山」のようです。
軽寺跡の由緒。
寺の創立年代は明確にされていないが、寺跡から飛鳥時代後期、あるいは白鳳時代前期と思われる古瓦が発見されている。日本書紀には天武天皇朱鳥(すちょう)元年(686)に軽寺という記事があって、寺の存在がわかる。
創立者は賀留大臣玄理(かるのおとどくろまろ)で、推古天皇の時、唐から持ち帰った薬師如来像を本尊として軽寺を建てたといわれている。
寺観などは全く不明であるが、平安時代中期、関白藤原道長が吉野詣りをしたとき、この寺を宿としている。当時付近には久米寺、大窪寺などの大寺があるにもかかわらず、この寺を宿としたほどであるから、相当な規模をもって栄えていたものと思われる。
橿原市教育委員会
権力を欲しいままにした藤原道長。
栄華を誇った道長が、吉野詣での途上に泊まったのが軽寺だったと伝わります。現在の寺観からはとても想像出来ませんが、当時の軽寺の勢いを知るには十分なエピソードではないでしょうか。
五条野丸山古墳。
国道169号線の「見瀬」を東に入り、しばらく進むと右手に見えて参りました。
軽寺跡は丸山古墳の北側の集落内にあります。
さらに東へ進んで行くと、丁字路に突き当たります。
何の石碑でしょうか?
ここを左に取って進み、さらに左へ回り込んだ所に軽寺跡がありました。
法輪寺(軽寺跡)本堂の左へ回り込みます。
墓石が連なり、その向こうに瓦屋根の祠が見えていますね。そこからさらに先は、春日神社(軽島豊明宮跡)の境内です。
祠の中を覗き込みます。
光背を負う坐像ですが、これは役行者でしょうか。
その手前には、頭部の無い石仏が。
無造作に置かれていると言うよりは、どこか祀られている雰囲気を感じます。
春日神社側から撮影。
法輪寺本堂と、先ほどの祠が見えていますね。
春日神社は応神天皇の軽島豊明宮跡と伝わりますが、おそらくこの神社境内も含めて軽寺跡なのでしょう。
本堂脇に立て掛けられた引戸。
透かし彫りが美しいですね。
本堂正面の雨戸。
向かって右手は集落の集会所でしょうか。
本堂前に大きな石がありました。
これがひょっとすると、金堂や講堂の土壇なのでしょうか。
土壇の位置や地形から、軽寺は法隆寺式であったと推測されています。
表面に見える黒い斑紋。
これは飛鳥石の特徴なのかもしれません。
大軽町の集落から東へ伸びる坂道。
ここを下って行くと、本明寺(石川精舎跡)や孝元天皇陵へ続きます。