前方後円墳の鳥屋見三才(みさんざい)古墳。
県立橿原高校に程近い場所にある古墳で、古くから御陵として言い伝えられています。
第28代宣化天皇陵として宮内庁の管轄下に置かれ、墳丘の中に入ることは出来ません。周辺には新沢千塚古墳群や益田池堤跡などがあり、歴史散策エリアとなっています。
宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)とヒガンバナ。
前方部の手前に水をたたえるのは灌漑用ため池の鳥屋池です。
前方部は北東方向を向いています。鳥屋ミサンザイ古墳の墳丘は細長い丘陵部の先端に位置しており、その地形に沿うように造られているようです。
皇后橘仲皇女との合葬墓『身狭桃花鳥坂上陵』
橿原市鳥屋町にある宣化天皇陵。
所在地の鳥屋町から「鳥屋ミサンザイ古墳」と呼ばれていますが、気になるのが ”ミサンザイ” という名前ですよね。実はこのミサンザイは「陵(みささぎ)」の転訛なんだそうです。そう、時の流れの中で訛った呼称です。古くから陵としての伝承があったことを裏付けています。
宮内庁管轄の御陵はどこも同じような形式で祀られていますね。
全長約140mの宣化陵ですが、実は宣化天皇のみならず、その皇后である橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)も一緒に葬られているようです。
身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)とも呼ばれ、神武伝承の築坂邑(つきさかむら)と重なります。ミサンザイ古墳の近くには「築坂邑伝承地碑」が建っており、その歴史を偲ばせます。また近鉄岡寺駅前には牟佐坐神社がありますが、古代地名の「牟佐・身狭」にも興味を覚えますね。
史跡・新沢千塚古墳群の東展望台(139号墳前)から宣化陵を目指します。
ひょっこり向こうに見えている山は、大和三山の畝傍山です。
県道133号線(戸毛久米線)沿いに立つ道標。
西から東を向いていますが、その右側に第28代宣化天皇陵が案内されていました。ここから200mの距離のようです。
左手に目をやると、畝傍山が綺麗に見えています。
位置的にも畝傍山を意識していたのでしょうか。
宣化天皇陵の駐車場とおぼしきスペース。
この日はチェーンが張られ、車の姿は見られませんでした。
宣化天皇陵へのアプローチ。
石畳が敷かれ、聖域へと一歩一歩近づきます。
現在は鳥屋町にあるこの古墳が宣化陵とされますが、丸山古墳もその候補地とされていました。ただ、丸山古墳には蘇我氏系墳墓の説が根強く、ここが最有力候補地でしょう。
皇后との合葬墓であることが示されます。
前方後円墳の墳丘は二段築成で、くびれ部の両側に方形の造り出しが確認されています。
県道沿いにあった地図。
わずかではありますが、前方部と後円部の間に造り出しが見られるでしょうか。地図上では、ちょっと歪な前方後円墳ですね。
天皇陵ではお決まりの ”小屋” 。
その手前には石のベンチも置かれていました。
向かって右側の玉垣外から撮影。
陵にはやはり松がよく似合います。
一筋の光が差し込み、神々しい空気が流れます。
墳丘の裾付近からは円筒埴輪・朝顔形埴輪、須恵器などが出土しているようです。
宣化陵の正面から向き直ります。
先ほどと同じく、その延長線上に畝傍山を望みます。
何やら軍人の碑のようなものが建っていました。
宣化天皇陵の左手に回り込み、鳥屋池の畔を歩きます。
池沿いにフェンスが張られています。
右手前に見えているのが、宣化天皇陵の前方部です。ここからさらに東へ行けば、少し離れた位置から前方部を見ることができます。
「鳥屋」の刻字。
古墳の発掘には副葬品が付き物ですが、鳥屋ミサンザイ古墳からは副葬品は出土していないようです。もちろん、現在は御陵指定ですので静謐が守られています。
灌漑用溜池の施設ですね。
当然のことですが、魚釣りは禁止されています。
訪れたのはお彼岸前の平日。
この時期になると、必ず花を開かせる彼岸花です。自然のリズムに大きな狂いはなく、毎年決まった時期に私たちの目を楽しませてくれます。
結界を表す石標ですね。
「界」の下に番号が振られていました。
てっぺんは赤く塗られ、×マークが刻まれます。
宣化天皇陵の南方には、国内最大規模の方墳とされる桝山古墳(身狭桃花鳥坂墓)があるようです。当日は時間に余裕が無く、宣化天皇陵にお参りした後は、さらに県道を東へ進んで豊受比咩命を祀る鳥坂神社へ向かいました。