草壁皇子の墓と伝わる束明神古墳。
佐田の集落上手の春日神社境内にあります。墳丘の形式は八角形墳であり、天皇ゆかりの被葬者であることに間違いはなさそうです。築造時期は7世紀後半頃で、終末期古墳に当たります。
春日神社の石鳥居。
佐田の集落から長い石段を登ります。
草壁皇子は天武天皇と持統天皇の皇子に当たる人物です。古代最大の戦・壬申の乱では天武天皇と共に戦い、皇太子に立てられるも即位せずに亡くなったと伝わります。
埋葬施設は特異な横口式石槨
現在の束明神古墳は、残念ながら埋め戻されています。
実物大の石槨模型が橿原考古学研究所附属博物館の前庭に展示されています。あまり見慣れない石槨のため、強いインパクトを来館者に与えています。橿考研博物館へ足を運んだ際には、是非じっくりと観察しておきましょう。
春日神社境内の遥拝所。
背後のこんもりした部分が束明神古墳のようです。大神宮石燈籠も並び建ちます。
こちらが橿考研博物館の石槨模型。
二上山の凝灰岩をブロック状に加工し、その石材を巧みに積み上げています。
石槨の長さは312cm、幅206cmの長方形の平面形態です。高さ129cmまでは垂直に積み上げ、その先は約60度の勾配で持ち送ります。他に類を見ない形態の横口式石槨ですね。
それでは、束明神古墳への道のりを辿りましょう。
近鉄吉野線の線路から西へ、高取国際高校を左手に見ながら坂道を上がって行きます。
束明神古墳へのアクセスルートは他にもありますが、いずれの途上にも道案内が付いており、初めての方でも迷うことはないでしょう。
道中に祀られるお地蔵さん。
手を合わせて先へ進みます。
程なく「佐田・束明神古墳」と書かれた道案内がありました。
地元出身の政治家のポスターですね。
佐田ふる里館。
佐田の集落の入口付近にあります。さらに上手へと歩を進めます。
ここにも道標が立っていました。
民家の間を縫うように進んで行きます。程なく左へ折れると・・・
春日神社へと続く石段です。
両側には竹林が迫ります。
春日神社の石鳥居。
目指す束明神古墳まであと少しです。
春日神社の狛犬と本殿。
狛犬には苔が生え、鄙びた雰囲気が漂います。
束明神古墳の案内板がありました。
草壁皇子がここに眠っていたのでしょうか。
今はただただ、何もありません。
昭和59年5月に発掘調査が行われた束明神古墳。
束明神古墳に関しては興味深い言い伝えが残っています。
江戸の幕末頃までは、この古墳に玉垣が巡っていたと云います。
明治時代になり、岡宮天皇(草壁皇子)の御陵を指定するための調査を行うとの知らせが佐田村に入りました。当時の佐田村では春日神社横の古墳を「岡宮天皇陵」として祀っていましたが、これが正式に指定されると佐田の村は強制移住をさせられるとの噂が流れました。
危惧した村人は玉垣を外し、石室を破壊してしまったそうです。
石燈籠の竿に「束明神」と刻まれます。
その当時からあった石灯籠なのでしょうか。
石室が破壊されたところへやって来た役人が、鉄の棒を墳頂から突いたが石室に当たらなかったと言います。
その結果、御陵は佐田の村の南300mの素戔嗚命神社の本殿の地と定められることになりました。今の岡宮天皇陵がそれに当たります。
石室床面の中央部分には漆喰が残っていたそうです。
鉄釘が多く出土していることからも、この部分に木製の棺台があったものと思われます。
明治天皇遥拝所の石標。
古墳からは漆膜も出土しており、漆塗木棺の使用も推測されます。
高貴な人が埋葬されていたであろう束明神古墳。
発見当時はかなりセンセーショナルに報じられ、全国各地から多くの考古学ファンが集いました。
八角形墳の周囲に巡る石敷。
かろうじて古墳築造当時の面影を留めています。
その特異な石槨から、否が応でも古代ロマンが掻き立てられる古墳。束明神古墳の見学は無料です。最寄駅は近鉄吉野線壺阪山駅で、徒歩20分ほどでアクセスできます。