嫉妬深かったという磐之媛(いわのひめ)。
大山古墳(日本最大の古墳)の被葬者・仁徳天皇の皇后です。仁徳天皇とは別居していたようです。仁徳天皇の浮気が理由ですが、その浮気相手とされる八田皇女(やたのひめみこ)の墓も磐之媛命陵のすぐ近くにありました。
磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)。
ヒシアゲ古墳は全長219mの前方後円墳で、全国24位の規模を誇る巨大古墳です。佐紀盾列古墳群の東端に位置し、南東方向にはウワナベ、コナベ古墳があります。ウワナベ古墳は宮内庁の「宇和奈辺陵墓参考地」で、八田皇女が被葬者ではないかと伝わります。
葛城氏の血を引く磐之媛!二重濠の平城坂上陵
磐之媛としては心落ち着きませんよね(;^_^A
後妻の八田皇女がすぐ近くに眠っている・・・なんだか信じられない配置で、古墳の密集地帯がさらに熱を帯びている感じがします。毎度のことで被葬者は確定しておらず、ウワナベ古墳こそが磐之媛の陵(みささぎ)だとする説も浮上しています。
磐之媛命陵の拝所へ続く道。
綺麗に整備された松並木です。すぐ脇には二重濠が巡り、初夏には杜若(カキツバタ)も開花するようです。自然に満ちた散歩向きの古墳ですね。
平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)。
奈良坂の上手という意味でしょう。
平城宮跡の北エリアには多くの古墳が密集しています。一旦迷い込むと、まるで迷路のようです。鬱蒼と生い茂る杜の中は “魔界” を連想させます。ウワナベ古墳やコナベ古墳は、広い周濠越しに前方後円墳を見ることが出来ます。ある意味、スコンと抜けた感じです。しかしながら、ヒシアゲ古墳は前方後円墳の姿が見えないのです。古墳を巡る周回路は準備されているのですが、深い杜が邪魔をして主体部を確認することが出来ませんでした。
こちらはコナベ古墳。
この辺りはサイクリングロードが整備されています。もう少し北方に京都との県境があるようです。
自転車道との分岐点。
ヒシアゲ古墳の所在地は、奈良市佐紀町字ヒシゲです。「平城坂上陵」と呼びますが、平城宮跡の北は “山” です。山と言っては語弊があるかもしれません。丘陵地帯と言った方がいいでしょうか。京都の都にも当てはまり、“四神相応の地”に則しています。すべからく古都の北には、小高いエリアが広がります。
京都の山城国(やましろのくに)は、平城山の後方です。
山背(やましろ)とも書きます。平城山丘陵の背後に広がる地域を指します。仁徳天皇の浮気に怒った磐之媛は山背の筒城宮(つつきのみや)に移ったようです。同志社大学の京田辺キャンパス内にある筒城宮伝承地ですね。
ヒシアゲ古墳の南、水上池の北畔に建つ万葉歌碑。
をみなへし 佐紀沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも(巻4-675 中臣女郎)
磐之媛命陵の拝所。
磐之媛は葛城襲津彦(そつひこ)の娘に当たります。
改めて思いますが、古代の人物相関図は複雑に入り組みますね。あの古代豪族・葛城氏の血を引いているようです。
二重濠越しに拝所を見ます。
御存知のように仁徳天皇の墓は大阪府堺市にあり、お互いに離れた場所に葬られています。あろうことか自分の留守中に、八田皇女を引き込み浮気をした仁徳天皇。仁徳天皇の元を離れ、難波宮には戻らなかったと言います。
魚釣り禁止の注意看板。
平城山の北に居を移した磐之媛は、故郷を思い歌に残しています。
我が見が欲し国は 葛城高宮 我家(わぎへ)のあたり
現地で確認しなかったのですが、おそらく此処は葛城山の辺りまで見渡せる場所なのでしょう。
ここを左へ入って行きます。
真っ直ぐ進み、左へ回り込めば磐之媛命陵の周遊路に入ります。右手は航空自衛隊奈良基地の領域です。航空自衛隊の面積も巨大で、ウワナベ・コナベ古墳の周濠とも隣接していました。
ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)を巡る生垣。
わすかに弧を描いていますね。前方部から後円部へ向かう“くびれ部”なのかもしれません。
「ならクル」の道標。
私たち奈良県民は見慣れている道標です。ネーミングがいいですよね、ならクル。
ここを左へ取ります。
真っ直ぐ行けば、おそらくヒシアゲ古墳の陪塚に辿り着くものと思われます。陪塚とは巨大古墳の付録のような小さな古墳のことで、ヒシアゲ古墳には県下随一の10基の陪塚があったようです。
歴史之道の石標。
磐之媛命陵と刻みます。
後円部の周りを歩きます。
ヒシャゲ古墳の北東部に差し掛かると、外堤が一部復元されていました。
周堤と外濠の案内図。
ヒシャゲ古墳をはじめ、水上池、コナベ古墳、ウワナベ古墳の位置関係がよく分かる地図です。
ここは歴史的風土(平城宮跡)特別保存地区です。
ヒシアゲ古墳は全長219mの巨大な前方後円墳です。ここは古墳墳丘の外側の周堤と外濠にあたる場所です。
2001年の発掘調査によって円筒埴輪列と葺石の様子が明らかになりました。敷石部分が周堤の位置を示しています。また、出土した埴輪を参考にして埴輪列を一部復元しています。
復元された円筒埴輪列。
かなりの落葉が積もっていました。
ヒシアゲ古墳の周堤・外濠跡。
これは葺石でしょうか。
辺りは静まり返り、人っ子一人居ません。大空の元、スコンと抜けた印象のウワナベ・コナベ古墳に比べ、どこか湿気を感じるヒシアゲ古墳の見学です。佐紀盾列古墳群の中では、瓢箪山古墳もよく似た環境でした。
平城宮跡とコナベ古墳の道案内。
引き続きヒシアゲ古墳の周遊路は、平城宮跡方向を目指します。
石畳の道に入ります。
この辺りが最も雰囲気を感じました。失礼を承知の上で言えば、磐之媛のジェラシーのようなものが纏わりつきます。
行く先に光が差します。
どうやら出口に辿り着いたようです。
ヒシアゲ古墳の南西隅には、祠が祀られていました。
古代における家系図は複雑に入り組み、頭の中がこんがらがります。そこを承知で、仁徳天皇の浮気相手である八田皇女について、もう少し詳しくご案内しておこうと思います。
八田皇女は、京都南部の「宇治」ともつながりがあります。
えっ、どういうこと?
実は宇治の地名由来にもなった「兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の妹に当たる人物が八田皇女なのです。兎道稚郎子は仁徳天皇の弟です。皇位継承の際、ひと悶着があり宇治川に入水したと伝わります。
兎道稚郎子は兄の仁徳天皇と共に、宇治上神社に祀られています。
その宇治上神社の社殿は、兎道稚郎子の離宮・桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)の旧地に建てられています。悲劇の兄を持つ八田皇女・・・複雑な人間模様が浮かび上がりますね。
南方から望むヒシアゲ古墳。
仁徳天皇と磐之媛(石之日売命)との間には、後に三代続く天皇が生まれています。なんだか救いを感じますね。
仁徳天皇の父である15代応神天皇の後、16代仁徳天皇、17代履中天皇、18代反正天皇(はんぜい)、19代允恭天皇と続きます。