中大兄皇子の下で大化の改新を推進し、我が国初の左大臣に任命された安倍倉梯麻呂。
安倍一族の氏寺・安倍寺を創建した人物として知られる安倍倉梯麻呂のお墓が安倍文殊院の境内に佇みます。
文殊院西古墳。
7世紀中期に造営された文殊院西古墳には、実に精巧な切石技術が施されています。被葬者が確定しているわけではありませんが、安倍氏にまつわる有力人物であることに間違いはなさそうです。巧みに研磨された切石を見ていると、几帳面な古代職人の姿が蘇って参ります。
両袖式の横穴式石室
表面が美しく研磨された花崗岩。
切石積みの外観が美しい横穴式石室が南に開口しています。国宝の文殊菩薩像が安置される本堂も南に面していますので、ちょうど同じ方角を向いています。本堂の東側、仲麻呂望郷しだれ桜の近くに特別史跡の文殊院西古墳はあります。
羨道入口付近に「頭上注意」の案内板が出ています。
古墳の入口から中へ、少し下って行く設計になっているのですが、背の高い人は特に注意が必要です。そのまま古墳の中へ入ろうとすると、間違いなく頭を打ってしまいます(笑) 阿倍仲麻呂の歌碑も見えていますね。案内板の向こうには、文殊池に浮かぶ金閣浮御堂の姿も垣間見えます。
玄室内に祀られる願掛け不動。
弘法大師空海の作と伝わります。安倍文殊院境内の不動堂の裏手には、弘法大師像が建っていますが、さすがに弘法大師様の御利益は全国津々浦々にまで行き渡っているようです。
歴史を解き明かすには限界が付き物です。空海作と伝えられる仏像が全国各地にありますが、その内本当に空海が自ら作った仏像がどれほどあるのでしょうか。今となっては誰も証明することができません。あるいは証明する必要などないのではないでしょうか、一種の護符のようなもので「空海作」というだけで有難味が違って参ります。信仰とはそういうものなのかもしれません。
安倍文殊院参道の石灯籠。
三日月形の孔から灯りがぽっと灯っていました。
参道沿いの二体の石仏。
山門を入って石灯籠の並ぶ参道を真っ直ぐ歩き、文殊池の手前で左に曲がります。この辺りから左右に二体ずつ、質素な趣の石仏が祀られています。光背の所々が変色していて、その歴史の古さを物語ります。
文殊院西古墳。
1952年に特別史跡に指定されている古墳です。
おそらく拝観時間以外は、古墳入口を囲うフェンスが施錠されるものと思われます。文殊院西古墳の右後方は駐車場になっており、参拝客の声が聞こえてきます。
文殊院西古墳の羨道。
左右対称の切石が美しいですね。それにしても、実に大きな花崗岩です。
文殊院西古墳は既に墳丘が変形しており、築造時にどのような姿だったのかは推測の域を出ませんが、おおよそ直径25メートルの円墳ではなかったかと言われます。
羨道の中から外を望みます。
羨道部分の両脇の切石は一段組みです。上積みする必要のない巨大な石が使われているようです。
羨道の天井付近に小さな石を見つけました。
段差が生じている箇所を埋めるために使われているようです。
羨道から玄室の中へ入ると、ライトが点灯しました。
玄室には外の光が届きませんので、センサーが感知して灯りが点されます。玄室が羨道よりも左右に広がる両袖式の古墳であることが分かります。
羨道と玄室の境目。
見事な石組です。
玄室の天井石。
巨大な一枚岩がアーチ状に覆い被さります。内側にわずかに窪みが施され、水漏れを側壁に逃がす仕組みになっています。
側壁の3箇所には模擬線が入れられており、1個の石材を2個に見せかけています。模擬線はどこだろう?と探してみたのですが、どうやら願掛け不動の右手に見える線がそうではないかと思われます。
明らかに怪しい縦の線が見られます。
玄室の石は五段に積み上げられています。左右対称の羨道に倣うためか、玄室の切石には模擬線が入れられ、整然とした印象を生み出しています。
7世紀の中頃に、こんなに整然としたお墓に葬られた人物は幸せだったのではないでしょうか。
「葬」という字をよく見てみると、「死」の上下に「草」が見られます。
昔の葬送の地では当たり前の光景でしたが、草むらに無造作に屍が転がっていたと言われます。「葬る」と「放る」は同じことを意味していたのです。
そんな中にあって、当時の技術を駆使したお墓に葬られるということは、取りも直さず偉大な権力を持っていた人物がこの古墳の被葬者であることを裏付けています。
<安倍文殊院関連情報>