天理市櫟本町にある赤土山(あかつちやま)古墳。
4世紀後半に築造された古墳時代前期後半の前方後円墳とされます。
後円部先端の造り出しが特徴的で、史跡公園として整備された今も円筒埴輪や家形埴輪のレプリカが置かれています。地震による地滑りの跡が後円部南側に見られ、すぐ近くには名阪国道やシャープ株式会社総合開発センターがあることでも知られます。
家形埴輪祭祀遺構の背後に、後円部墳丘を望みます。
古墳に見られる造り出しは、古墳時代中期に前方後円墳のくびれ部分に設けられるようになります。しかしながら、赤土山古墳の造り出しは後円部の東端に造成されています。緩やかなラインを描くように小石が敷き詰められ、王の家や倉庫を模した家形埴輪が展示されています。積み上げられた石のラインは水辺が表現されているのでしょう。その水際には、謎を呼ぶ囲形埴輪(かこいがたはにわ)が置かれていました。
東大寺山古墳群を構成する大型前方後円墳
赤土山古墳は東大寺山丘陵上に位置しています。
赤土山古墳のすぐ近くには、4世紀後半頃に築造された東大寺山古墳があります。
東大寺山古墳へのアクセスは、天理教の敷地内を通ることになります。赤土山古墳も住宅街をすり抜けて行かなければなりません。どちらの古墳も辺鄙な場所と言えば、確かにその通りです(笑) 観光バスが乗り付けるような便利さはありませんが、その分訪れる人も少なく、穴場感をたっぷり味わえる古墳だと思われます。
後円部先端の家形埴輪祭祀遺構。
流線形の格好いい屋根が天に向かっています。直ぐ近くにシャープの建物が見えていますね。
入母屋、切妻、住居風、倉庫風と様々な形の家形埴輪が並んでいました。
赤土山古墳の整備現況図。
入口を入ってすぐの所に案内されていました。
西の方から順に2号墳、掘割広場、前方部、くびれ部、後円部、造り出し広場、祭祀遺構広場、芝生広場と続きます。
前方部から後円部へ向けて、墳丘の頂上を目指します。
頂上付近には松の木が生え、その右手奥にはSHARPのロゴが見えます。
後円部の縁に並ぶ円筒埴輪。
円形の透かし孔を持つ土管状の埴輪ですね。円筒埴輪の役割は、聖なる空間を区切る結界ではないかと思われます。実は円筒埴輪には底が無く、中には何も入れることが出来ないようです。その起源は弥生時代の共飲共食儀礼に用いられた土器にあるとされますが、時代を経るに従って形骸化していきました。
赤土山古墳の被葬者は和爾氏ゆかりの人物ではないかと言われますが、その崇拝すべき被葬者を守るために邪悪なものの侵入を防いでいます。
赤土山古墳のアクセス方法
ちょっと分かりづらい場所にある赤土山古墳。
これだけ整備された史跡公園であるにも関わらず、そのアクセスに迷ってしまう人も多いのではないでしょうか。かく言う私もその内の一人でした。そこで今回は、分かりやすくかつ簡潔に、赤土山古墳への行き方をご案内致します。
今回私は和爾下神社の鳥居をくぐってアクセスを試みました。鳥居から東へ真っ直ぐ進んで行くと、やがて二手に分かれる道に行き当たります。そこを左手に曲がります。さらに右へ折れ、緩やかな坂道を上って行きます。この辺りは東大寺山古墳との分岐点にもなっていますので、間違わないようにしましょう。
ここが重要なアクセスポイントですね。
正面に半円を描く民家の壁が見えてきます。左手が赤土山古墳へ続く道で、右手が行き止まりです。
この先行き止まり。
残念ながら右手に進むと、赤土山古墳へは辿り着けません。
進行方向に赤土山古墳があるにはあるのですが、その入口はこちらではありません。
半円形の壁から左手へ上がって行く道。
この道の先に赤土山古墳の入口があります。緩やかな坂道の先の”住宅街の突き当り”、そこに赤土山古墳の玄関口はあります。私が知る限りでは、どうやら入口は2箇所あるようです。この坂道の先にあるのが西入口とするなら、そのすぐ近くに北入口もあります。
こちらが北入口。
赤土山古墳史跡公園の北西隅に当たります。
赤土山自治会による車両進入禁止の看板が立っていました。ちなみに赤土山古墳の駐車場はありません。お車でアクセスされる方は、西入口の手前に路上駐車するしか方法はないようです。しかしながら、民家前ですのであまりおすすめはできません。北入口へ回り込む角にちょっとしたスペースが空いていますので、そこに駐車する方が無難かと思われます。
赤土山古墳と白川ダムが案内されています。
公園の北西隅には、子供用の滑り台も設置されていました。
西入口の手前のパンフレット入れ。
中を覗いてみましたが、残念ながら空っぽでした(笑)
史跡赤土山古墳。
向こうに見える石段は、前方部先端の掘割遺構広場へ通じています。
赤土山古墳の解説。
東大寺山に立地する赤土山古墳は、別名アカンドヤマ古墳、あるいはアカトヤマ古墳と呼ばれています。
古墳時代前期後半に造られた大形の前方後円墳で、東西に主軸をもち、埋葬施設がある後円部と儀式の場である前方部が築かれています。墳丘は上下2段構成で、表面には葺石をほどこし、頂上と段築面には埴輪列を並べています。
後円部の東側には、「造り出し」と呼ぶ儀式の場があり、前方部とは区別しています。また、家形埴輪を並べた祭祀遺構が、「造り出し」の南側から出土しています。赤土山古墳は平成4年12月15日に国史跡指定を受けました。
前方部と後円部に、それぞれ儀式の場が設けられていたことが記されます。
赤土山古墳は築造後、比較的早い時期に地震による地滑りに遭っています。墳丘の南半分がずり落ちてしまったそうですが、今もその痕跡を見ることができます。家形埴輪を並べた祭祀遺構、さらには地震の跡の確認などが見学ポイントになるでしょうか。
古墳の領域を示す掘割遺構
赤土山古墳の前方部西端には、古墳の領域を示すという掘割遺構があります。
入口に一番近い場所に設けられていますので、見学順路としては一番目になるものと思われます。
石段の手前に案内プレートがありました。
史跡赤土山古墳のロゴデザインには、ラッパ状に広がる朝顔形埴輪が使われていますね。
掘割遺構広場。
円墳の2号墳に隣接する形で掘割があったとされます。民家脇に曲線を描く植え込みが見られますが、あの部分が2号墳を表しているのかもしれません。広場と言っても、さほど広くはありません。前方後円墳の前方部先にこぢんまりとしたスペースが設けられていました。
掘割遺構と2号墳の見取図。
段築や園路も併せて案内されています。緑色の墳丘には、小学校の社会科で習った等高線のようなラインも見られます。
掘割遺構と2号墳の解説板。
赤土山古墳の前方部先端には、幅およそ8m、深さ2mほどの地山(ちやま)を掘削した空堀(からぼり)があります。これは古墳の領域を示す遺構で、「掘割(ほりわり)」と呼んでいます。前方部先端は2段築成で葺石を施し、段築には埴輪が並んでいたと思われます。
掘割を隔て西側には2号墳があり、墳形は径20mほどの円墳です。墳丘は2段築成で、段築から大形の円筒埴輪を用いた埴輪列が出土しています。築造時期は赤土山古墳と同じ古墳時代前期後半だと思われます。墳丘の頂上はすでに削平を受け埋葬施設は残っていませんが、副葬品だと思われる石釧(いしくしろ)の破片が出土しています。
なるほど、空堀だったのですね。
実用的な堀ではなく、あくまでも縄張りと言うか、古墳の領域を示すためのものだったようです。
2号墳から出土した石釧(いしくしろ)ですが、石釧とは石製の腕輪のことです。古墳時代に用いられた宝器とされ、その多くは碧玉(へきぎょく)製で、実用性を持った石釧も存在していたと言われます。
掘割遺構広場から墳丘頂上へと続く階段。
手摺りの下方に掘割広場を見ます。
墳丘上の小道。
ここまで来ると、なんだか気分がいいですね。視界が開け、墳丘上からの眺めを楽しむことができます。
右手に目をやると、名阪国道がすぐ近くに見えています。伊賀上野方面から天理方面へ向かう車、東大阪・天理方面から三重・伊賀上野方面へと向かう車が行き交います。
駐車中の車は、シャープで働く方々のものでしょうか。取引先企業の方々も数多く出入りされているものと思われます。
墳丘からの景色を楽しんだ後、いよいよ赤土山古墳の見所である造り出し部分へと向かいます。
造り出し南側から出土した祭祀遺構
祭祀空間である造り出し。
前方後円墳の場合、前方部と後円部の間のくびれ部に造成されることが多いのですが、赤土山古墳では後円部の先端に造り出しが見られます。造り出しと言えば、馬見丘陵公園内の乙女山古墳を思い出します。帆立貝式古墳に分類される乙女山古墳ですが、その後円部西側に張り出した出島こそが祭壇場の造り出しでした。
被葬者を埋葬した後は、再び墳丘に上ることが躊躇われます。かと言って、追善供養をしないわけにはいかない。そこで、おまけのように付け足されるのが造り出しというわけですが、赤土山古墳からも祭祀空間を思わせる遺構が見つかっています。
造り出しの解説パネル。
出土状況が写真で案内されています。
儀式の場であった造り出しが説明されています。
円筒埴輪が造り出しの形に沿って、3m弱の間隔で立ち並んでいたことが解説されています。祈りが捧げられていたであろう場所に立ち、被葬者のことを思います。
赤土山古墳の南の崖からは鍬形(くわがた)石を含む腕輪形石製品(石釧)が出土しています。鍬形石は相当身分の高い人でないと持てないとされます。前方後円墳の規模から見ても、身分の高い人が葬られていることに違いはなさそうです。
家形埴輪祭祀遺構を見下ろします。
レプリカではありますが、発掘当時の埴輪列を頭に描くことができますね。
家形埴輪祭祀遺構の解説パネル。
墳丘の裾に様々な種類の埴輪が展示されていました。やはりこういうのを目にすると、古墳見学にやって来たんだなと自覚します。墳丘の上を歩いているだけでは、確かにハイキングと何ら変わりはありませんからね。
屋根の形が特徴的ですね。
遥か南方には山々が連なります。
古墳時代初期から見られる円筒埴輪の後、4世紀前半(古墳時代前期中頃)には家形埴輪などの形象埴輪が姿を現すようになります。家形埴輪は首長の存在を明示していると言います。
小石で谷間のような場所が表現されています。
壺のような形をした埴輪も見られますね。
円筒埴輪出土位置。
造り出し解説板の近くに、実際に円筒埴輪が出土した場所が示されていました。円筒埴輪だから丸い形で案内されているのでしょうか、それにしても文字が少し読み取りにくいですね。
鶏形埴輪。
今の鶏と比べても、その姿形は何ら変わりがありません。古代人との繋がりを感じる瞬間ではないでしょうか。
形象埴輪の歴史を辿れば、船形埴輪や水鳥形埴輪などの移動を象徴する埴輪は4世紀後半頃に登場することが分かっています。前方後円墳のくびれ部に造り出しが設けられた時代とも重なり、船や鳥の形をした埴輪はその造り出しから出土することが多いようです。
赤土山古墳の謎の一つとされる囲形埴輪。
ギザギザ模様の付いた不思議な形の埴輪です。
一説には水を引き込む設備の付いた祭祀場ではないかと言われますが、その謎は深まるばかりです。塀に囲まれ、少し迷路のようにもなっています。浄水祭祀場という見方が一般的ですが、その解明が待たれるところです。
ぎざぎざのモチーフも気になりますね。
結界を示す印のようにも見えてきます。古寺の瓦にも鋸歯文(きょしもん)と言って、ノコギリの歯の形を思わせる文様が刻まれていることがあります。魔除けの意味が込められているようですが、この囲形埴輪のギザギザにも同じような意味が込められているのではないでしょうか。
果たして導水施設なのか?
明日香村の酒船石や亀形石造物にも、水を流すための溝のようなものが見られます。
飛鳥の亀形石造物の前で、斉明天皇が祈りを捧げるシーンを映すビデオを見たことがあります。なぜか印象に残る祭祀場だったことを思いだします。
囲形埴輪も写真付きでガイドされています。
これは出土した時の囲形埴輪でしょうか。
それにしても不思議な形をしています。
何か閉じ込められたような空間が表現されているような気がしますね。
芝生広場に見る地滑りの痕跡
祭祀遺構から南西方向には芝生広場が広がります。
南方に視界が開け、石のベンチなども置かれていて休憩ポイントにもなっていました。
赤土山古墳の芝生広場。
基本的に墳丘上からの眺めとそう変わりはありませんでしたが、こちらではゆっくりと腰掛けて寛ぐことができます。
せり上がるように後円部へと続いています。
その背後にはシャープの建物が見えます。この地形こそが、地震による地滑りの跡なのかもしれません。
後円部南側からの出土遺物が案内されています。
地震によって、墳丘頂部に並んでいた円筒埴輪列が立ったままの状態でずり落ちたようです。幸か不幸か、築造当時の埴輪列がそっくりそのままの形で出土したそうです。破壊されることもなく、土の中に長い年月の間埋もれていたと言います。まさしくタイムカプセルですね。
円筒埴輪や朝顔形埴輪の出土状況が写真付きで案内されていますが、本当に綺麗な姿で現代に蘇っています。地震のお陰と言ってもいいかもしれませんね。
後円部南側の出土遺物・石釧(いしくしろ)。
割れてはいますが、その描く曲線から腕輪であることが伺えます。
朝顔形埴輪の出土状況。
本当にそっくりそのままの姿で出土していることが分かります。通常は長い年月の間に土砂が崩れ、その根元しか残らないとされる円筒埴輪や朝顔形埴輪が、地滑りの甲斐あってかそのままの状態で出土しています。
地層の歪み。
素人目にもはっきりと見て取れますね。
墳丘の南半分は地滑りによって崩れてしまっていますが、北半分は今も綺麗に残っています。
前方後円墳のくびれ部。
芝生広場でゆっくりした後、シャープ敷地内を右手に見ながら帰路に着きます。
赤土山古墳の北側には園路が通っていて、縦長に前方部と後円部を見渡すことができます。
くびれ部の傍には、朝顔形埴輪と円筒埴輪が並んでいました。
やはりこの”くびれ部”というのも、古墳見学においては一つのポイントになります。
上空からの航空写真でも見ない限り、古墳の全体像を掴むことはできません。しかしながら、前方後円墳の場合だと、そのくびれ部に立つことによっておぼろげながらに把握することが出来るのです。
これより先、シャープ株式会社総合開発センター敷地内につき、ゴミ等投げ入れないで下さい。
総務部 SHARP
シャープの皆様方に迷惑にならないよう、くれぐれもマナーには注意を払いましょう。赤土山古墳には民家や会社が隣接しています。すぐ近くに迫る生活空間との共生が問われます。
赤土山古墳の全景。
赤土山古墳のある櫟本町ですが、櫟本(いちのもと)という地名は荘園名として奈良時代から見られます。櫟本の地名由来は、市場に因むとも、あるいはイチヒガシの植生に起因しているとも言われています。
赤土山古墳の交通機関を利用してのアクセスは、JR櫟本駅を下車して東へ徒歩20分となっています。奈良交通バスを利用すれば、櫟本バス停を下車して東へ徒歩10分です。