能楽観世流の世阿弥が修行したという補巌寺(ふがんじ)。
田原本町味間にある補巌寺を訪れて参りました。桜井から田原本、王寺を結ぶ県道14号線は幾度となく通る道なのですが、すぐ傍に佇む補巌寺にお参りしたのは今回が初めてでした。
補巌寺山門。
「不許葷酒入山門」と刻まれた石標が建ちます。禅寺によく見られるお達しで、”葷酒(くんしゅ)の山門に入るを許さず” という意味を表します。ニンニクやニラ、酒を嗜んだ者の立入りを禁じる注意書きです。田原本御佛三十三カ所巡礼の第二十一番札所にもなっているようですね。
世阿弥参学之地碑と本尊・釈迦如来坐像
今秋に催されていた奈良県立美術館の禅(ZEN)関連企画展でも、実は補巌寺の展示品を目にしていました。
古文書として有形文化財に指定される補巌寺納帳です。補巌寺にお住いの御婆様によれば、奈良県立美術館に運び出される際は随分丁重に梱包されて出張して行ったそうです。
山門の右手に建立された世阿弥参学之地碑。
補巌寺は至徳元年(1384)に創建された大和初の禅宗寺院です。
補厳禅寺納帳には能楽の大成者・世阿弥とその妻の法名も見られ、補巌寺が世阿弥夫妻の菩提寺であったことが分かります。世阿弥は幼少時から父・観阿弥の一座に出演し、補巌寺の第二代竹窓智厳(ちくそうちごん)に師事して参学しました。
世阿弥の遺徳を仰ぐ者や地元有志らが発起し、各界からの基金にもとづいて観阿弥没後満600年、補巌寺開基満600年の年に参学碑が建立されました。
世阿弥と補巌寺の関係が解明されるに至った経緯には、金春禅竹に宛てた世阿弥直筆の手紙があります。そこにはこう書かれています。
仏法にも しゅうし(宗旨)のさんかく(参学)と申すハ とくほう(得法)以後のさんかく(参学)とこそ ふかんじ2代ハ仰せ候しか
一般的な読み方では、補巌寺(ほがんじ)になります。そのため、“ふかんじ”が当寺のことであることが分からなかったようです。
補巌寺の御本尊・釈迦如来坐像。
山門裏手の畑で作業中の御婆様に拝観のお願いをしたのですが、拝観日は年間を通して8月8日のみとのことでした。8月8日の午前中に補巌寺にお参りすれば、釈迦如来坐像を拝むことができるようです。
庄屋屋敷の木村邸を通って補巌寺へアクセス
補巌寺の行き方ですが、至って簡単でしたのでここにご報告しておきます。
休日のこの日、王寺の明神山界隈を目指して三輪を出発致しました。県道14号線を走りながら、今週末に料理に使う予定の里芋が不足していたことを思い出します。味間の郵便局の手前に産直市場があったのを思い出し、お店の駐車場に車を停めました。
JAならけん味間にこにこ農産物直売所。
以前ここはコンビニエンスストアでした。
大和伝統野菜の味間芋を購入しました。
大きな芋をたくさん付ける豊産種です。昭和初期に、田原本町味間の生産者が奈良県農事試験場(現在の農業研究開発センター)から最も有望な系統を譲り受け、現在まで生産されているそうです。冬の時季はやっぱり根菜類が美味しいですよね。オランダ煮やグラタンの材料に重宝しています。
直売所から少し戻って、歩道橋の架かる角を南へ向かいます。田園風景の中をしばらく歩くと、やがて左手に天理教の多味分教会が見えて参ります。
天理教多味分教会。
たくさんの車が駐車していました。信者さんの出入りが激しいようですね。このまま南進すると、やがて丁字路にぶつかります。そこには補巌寺を案内する道標が立っていました。
大和条里制遺構の景観と案内されています。
補巌寺と同じ方向には、どうやら庄屋屋敷があるようです。
ここから西へ進んで行くと、やがて右手に須佐男命を祀る須賀神社が現れます。その西隣りに、四方を堀に囲まれた広大な庄屋屋敷が建っていました。
庄屋屋敷木村邸の堀。
これはスゴイですね、水をたたえた堀がお屋敷を囲んでいました。お城でもなければ環濠集落でもありません。一軒の庄屋屋敷に過ぎないのですが、その広大な敷地の四方をお堀が囲んでいます。この堀と接するように、さらに西側にあるのが補巌寺です。
味間公園の前を回り込みます。
この右手向こうに補巌寺の山門が建っています。
宝陀山補巌寺の石号標。
山門の手前右側が味間公園の敷地です。
石号標の脇にお堂がありました。
何かが祀られているようですね。
その昔、この辺りには興福寺の勢力が及んでいたと伝えられます。
十市氏の菩提寺として栄えた室町期
補巌寺から南方には十市城跡や十市御縣座神社があります。
この辺りは十市氏のお膝元と言ってもいいエリアなのです。
時は下り、補巌寺の新鮮な宗風と修行が天下の耳目を集め、地元有力者の十市氏の勢力伸長も手伝って大いに栄えることになります。隆盛期には寺領75町歩、末寺は県内のみならず全国各地に11ヶ寺、末末寺を合わせて計230余寺となって充実期を迎えます。
補巌寺山門。
今ではこの門と鐘楼、それに世阿弥の参学碑を残すのみとなりました。
戦国時代の永禄12年(1569)、十市遠勝(城は龍王山頂)の時、松永禅正との戦いに敗れて十市氏は滅亡します。室町時代に栄えた十市氏の菩提寺であった補巌寺もその大半が焼失してしまいます。
補巌寺伝説によれば、松永禅正は十市氏の城よりも先に補巌寺に火を放ったそうです。十市軍が補巌寺へ救援に向かった隙に城を攻め滅ぼしたと伝えられます。
宗派は曹洞宗に属するようですね。
像高66.7cmの釈迦如来坐像(室町時代)のお姿が写されます。
この寺は元光蓮寺(律宗)であった。1300年代中頃 改宗して大和で最古の禅寺・宝陀山・補巌寺(曹洞宗)となる。
寺は開山了堂真覚の熱心な布教と十市の支援で、どんどん大きくなり、末寺孫末寺あわせて200余寺、寺領45余丁となり栄える。
戦国時代の末に十市は仇適松永禅正(郡山城主)に破れ滅亡、寺は丸焼きにされた。
徳川時代に入って領主藤堂家の祈願所となる。徳川期に放火により全焼、明治の廃藩置県で藤堂は去り、更に戦後の農地解放で息の根を止められた。
観世の祖世阿弥は当寺2代竹窓智巌に師事した。納帳には、至翁禅門(ぜあみ)と妻(寿椿)の名が見られ、田地各一段を寄進している。
世阿弥夫妻は補巌寺で出家しています。
それぞれ「至翁禅門」「寿椿禅尼」と呼ばれ、寺に田地一段ずつを寄進したそうです。納帳には至翁禅門8月8日の記述があり、供養が営まれていたことが分かります。
奈良県立美術館に展示されていた補巌寺納帳ですね。
味間地域はかつて、補巌寺を擁していたことにより水の優先権があったと伝えられます。周囲に溜池が見られないことからも、そのことがうかがえます。
山門の軒丸瓦。
珍しい紋が刻まれていますね。
昭和59年の世阿弥忌の日に除幕式が行われました。
加藤和光住職の時代で、題字は道元禅師直筆から集字し、碑文は補巌寺納帳を発見した故表章(おもてあきら)法政大学名誉教授が選びました。
補巌寺世阿弥碑期成会による副碑。
能楽の芸術性を高めた世阿弥の偉業が顕彰されています。
補巌寺の鐘楼。
建物だけが残されており、中の鐘は存在していません。戦時中に供出の運命を辿ったそうです。
鐘楼の横から中に回り込みます。
確かに鐘の姿は見られません。
鐘楼の屋根瓦が波打っていました。
畑仕事を終わられた御婆様から色々なお話をお伺いしました。時の権力者・足利義満に寵愛された世阿弥でしたが、時を経て佐渡ヶ島に島流しにされています。今も佐渡ヶ島には世阿弥ゆかりの能楽堂がたくさん残っているようです。
山門は固く閉ざされたままです。
山門入って左奥にお寺の墓地がありました。
十市遠勝の碑、およびその子孫の上田家、重臣であったと思われる木村、今沢、渡辺家のお墓が佇みます。その手前にお寺の畑があって、そこで立ち話をした後、隣りの民家の縁側にお招き頂きました。
お寺の方のご厚意により、素敵な時間を過ごすことが出来ました。この場を借りてお礼申し上げます。
<補巌寺の拝観案内>
- 住所 :奈良県磯城郡田原本町味間847
- 駐車場 :有り(山門前に数台)
- アクセス:近鉄橿原線田原本駅よりバス停「味間」下車、徒歩5分