大きな墳丘を残す前方後円墳。
近鉄田原本線黒田駅から徒歩5分ほどの場所に、古墳時代後期に築造された黒田大塚古墳があります。桃太郎伝説で有名な法楽寺を拝観した後、徒歩で黒田大塚古墳へ向かいました。
黒田大塚古墳の墳丘。
6世紀初頭の前方後円墳です。古墳時代後期にもなると、方墳や円墳が多くなりその規模も縮小傾向にあるのですが、そんな中にあって割と大型の墳丘が残されていることに注目が集まります。
6次に及ぶ発掘調査の結果、埴輪や笠形木製品等が出土しています。出土品は田原本青垣生涯学習センター内の唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されています。ミュージアムの観覧料は200円ですが、ご興味をお持ちの方は是非足を運んでみて下さい。
墳丘に登れる公衆トイレ付きの前方後円墳
県史跡に指定されている黒田大塚古墳ですが、墳丘に登ることができます。
墳丘の脇には公衆トイレもあり、太子道ウォーキングの途中に立ち寄ることも可能ですね。
黒田大塚古墳、三宅古墳群・島の山古墳を案内する道標。
法楽寺のご住職に拝観のお礼を言って、そのまま東へと向かいます。程なく道標を見つけ、すぐ近くに黒田大塚古墳があることを確認します。墳丘の周りはちょっとした公園のように整備されており、おトイレの横には腰を掛けるスペースも用意されていました。そこに、墳丘の解説パネルが掲示されています。
江戸時代には墳丘の周りに濠が巡らされていましたが、今ではその濠も見当たりません。
墳丘の周囲はちょっとした憩いの場になっていました。
前方後円墳の形がトレースされており、今の墳丘よりも一回り大きいことが分かります。赤字で現在位置が示されていますが、そこは公衆トイレのある場所です。前方部を法楽寺、後円部を京奈和自動車道(橿原バイパス)の方向に向けて佇みます。
墳丘の脇にアスファルト部分が見えますが、昔の周濠のあった場所とされます。
行く手左奥に見えているのが公衆トイレです。
黒田大塚古墳の公衆トイレ。
古墳の脇にトイレとは、あまり見かけない光景ですね。明日香村のマルコ山古墳を見学した時にも、墳丘の傍らに公衆トイレがありましたが、あの時以来かもしれません。観光客にとっては有難いことに変わりはありません(笑)
黒田大塚古墳の変遷が案内されていました。
黒田大塚古墳は奈良盆地の低地部に立地する、古墳時代後期(約1500年前)の前方後円墳です。この古墳は、今よりも墳丘が一回り大きかったことや、幅8m・深さ1mの周濠が巡っていたことが判っています。現在公園内にみられるアスファルト部分は、周濠があった場所を示しています。
この周濠は約250年の間、水をたたえていましたが、奈良時代頃には埋没したようです。時を経て鎌倉時代になると、一度埋まった周濠部分に大溝を掘ります。大溝は墳丘を削った土で埋め立てられており、この頃から墳丘の削平が始まったものと考えられます。
江戸時代には、さらに2条の大溝が墳丘を囲むように掘られます。内側の大溝は、墳丘一段目を削るように掘削しており、今見るような墳形になりました。
墳形の変化が時代を追って語られています。
ここにも「削平(さくへい)」という言葉が登場していますね。古墳の解説文ではおなじみのキーワードですが、広辞苑を紐解いてもこの”削平”という言葉は掲載されていません。文字通り「削って平らにする」ことを意味するのですが、今ではすっかり私の頭の中に定着してしまいました。墳丘の削平は、古来より幾度となく繰り返されて来た古墳の歴史を物語ります。
古墳時代から鎌倉時代、さらには江戸時代にかけて古墳の変化が見られますね。
下部には断面図も案内されており、江戸時代になって墳丘の一段目が掘削されている様子がよく分かります。周濠の深さに関しては、どの時代も大して変わりはないようですね。鎌倉時代までは墳形が維持されていましたが、江戸時代になって急にショボくなってしまっています(笑)
かつての周濠をぐるりと巡ります。
こちらは後円部ですね。前方部よりも50cmだけ高く盛られているようです。
後円部の傍らに椅子が二脚置かれていました。
周囲には木が植えられていて、枝の先がぷっくりと膨らんでいました。これはひょっとすると桜の木でしょうか?春になると、花見見物が楽しめるのかもしれません。
前方部と後円部の境目辺りに階段がありました。
どうやらこの階段を上がって、墳丘の頂に登ることができるようです。
階段の脇には、道標が立っていました。
西に法楽寺、東に行けば太子道、近鉄黒田駅へとアクセスします。さらにその横には、県史跡の黒田大塚古墳を案内する解説板がありました。
県指定史跡 黒田大塚古墳
昭和58年3月20日指定
黒田大塚古墳は、三宅古墳群の南端に位置する古墳時代後期の前方後円墳である。墳丘は二段築成であり、推定される規模は周濠を含め全長86m、墳丘長70m、後円部径40m、後円部高さ8.2m、前方部前端幅45m、前方部高さ7.7mである。また、墳丘の周囲には幅8m、深さ約1mの周濠がめぐる。
周濠の発掘調査では、墳丘に立てられていた円筒埴輪や蓋形埴輪、蓋形や鳥形の木製品が転落した状態で出土していて、本来墳丘に立てられていたと考えられている。埋葬施設は未調査のため不明だか、古墳の築造時代は、その形態や出土遺物から6世紀初頭と考えられる。
牛形埴輪が出土した田原本町羽子田一号墳とともに、奈良盆地中央部の数少ない古墳時代後期の大型古墳として、注目すべきものである。
羽子田一号墳ですか、これはいつか訪れてみないといけませんね。
羽子田(はごた)古墳群は、役場西側の田原本小学校付近に広がる11基の古墳群です。残念ながら墳丘は既に削平されており、埋没古墳となっています。明治29年に羽子田1号墳から出土した牛形埴輪が国の重要文化財に指定されていて、唐古・鍵考古学ミュージアムに常設展示されています。
黒田大塚古墳と羽子田1号墳は、どちらも ”古墳時代後期に築かれた大型古墳” という稀なカテゴリーに属しています。
黒田大塚古墳の墳丘前方部。
右手前方には、つい先ほどお邪魔して来た法楽寺地蔵堂の屋根が見えています。
法楽寺の伽藍坊舎図。
法楽寺の境内で案内されていたものを拝借しています。地蔵堂との位置関係も昔と変わらないようです。前方後円墳の形には程遠いような気もしますが、前方部と思しき部分がちゃんと地蔵堂の方を向いています。
法楽寺地蔵堂。
距離的にも黒田大塚古墳とほんの少ししか離れていません。
後円部の頂。
東方には京奈和自動車道(橿原バイパス)が通っています。
整備された墳丘に登って行きます。
なだらかな階段が付いており、とても登りやすい墳丘です。
上に登ると、民家が見渡せます。
墳丘にはかつて、たくさんの埴輪が配列されていたそうです。
綺麗に整備されているということは ”改変されている” ということでもあるのですが、今よりも規模が大きかったと言いますから、是非その時の古墳も見てみたかったですね。
北の方角を望みます。
黒田大塚古墳から出土したという笠形木製品ですが、その使用目的は何だったのでしょうか。今も唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されており、考古学ファンの注目を集めています。
公衆トイレ前から撮影。
ここからだと、墳丘の全体像を捉えることができますね。
京奈和自動車道を通す際、三宅古墳群の場所も意識されたものと思われます。
奈良県はいつも開発と保存の中で揺れ動いています。
今秋見学したキトラ古墳四神の館でも、明日香村の保存運動を学んだところです。開発の波は抑えがたくやって来ます。そんな中で共存していく道が常に模索されているのです。
あ~、奈良は深い。そう感じさせてくれる古墳が県内にはまだまだたくさんありそうですね。