飛鳥時代の庭園遺跡『飛鳥京跡苑池』(あすかきょうあとえんち)を訪れました。
飛鳥京跡苑池は北池と南池に分かれており、この度、北池から階段状の護岸が発見されました。これほど長い階段状の護岸は珍しく、船着き場、もしくは臣下の禊ぎの場だったのではないかと推測されています。
飛鳥京跡苑池の休憩舎。
池跡の南東方向に資料室を兼ねた休憩所が併設されていました。まだ真新しい空間で、発掘調査時の写真などを見ることができます。ここで少し予習してから、現場に出向くのがおすすめです。
斉明天皇の饗宴の場!国の史跡及び名勝に指定
周辺で作業中の方にお伺いすると、現在は南池の方は埋め戻されているようです。
北池はまだ調査中で、数人の方が忙しそうにされていました。今後は南池の保存整備が進められ、観光客にも開放されるようになるのではないかとのことです。
休憩舎の外観。
休憩舎の北西方向に、お目当ての飛鳥京跡苑池が広がります。
奈良県立飛鳥京跡苑池休憩舎の立看板。
飛鳥京跡苑池は飛鳥京跡(伝飛鳥板葺宮跡)のすぐ西側に位置します。苑池の南東方向には、宮殿遺構の中心を成す飛鳥京跡内郭(あすかきょうせきないかく)と呼ばれるエリアが控えています。さらに内郭から南東方向には、エビノコ郭が配置されていました。
エビノコ郭?
橿考研ミュージアムで見学したエビノコ郭の模型が脳裏に蘇ります。ちょうど明日香村役場がある辺りですが、西側に門を持つ区画とされます。当時は南門でないことが不思議でしたが、飛鳥京跡苑池の方へ開けていると考えれば納得がいきますね。
北池の発掘調査中。
西側の階段状護岸が確認できますね。
果たして舟遊びに興じるための船着き場だったのでしょうか。池の深さは4m以上だったと言います。
休憩舎内の航空写真。
木製テーブルの上にありました。
ちょっと分かりづらいですが、色の変わっている五角形の空間が南池です。渡堤を挟んで、その北側に長方形の北池が広がります。北池のさらに北方には水路が通っていたようです。
こんな感じです。
南池には中島がありました。
”中の島” を造るとは、何とも風流ではありませんか。島のやや右寄り上部に黒い影が見えていますが、中島に生えていた松の根っこだと思われます。苑池の東側には門があり、北池と南池のちょうど中間点ぐらいに位置しています。
休憩舎の片隅に目をやると、何やら模型のようなものが展示されていました。
縮小模型が休憩舎の片隅にありました。
南池の流水施設のようです。
うん?この形の石造物には見覚えがあります。そうそう、飛鳥資料館の前庭に展示されていたレプリカです。「出水の酒船石」と呼ばれる導水施設ですね。改めて飛鳥京跡苑池の南池から出土したことを再確認します。
南池に水を注ぎ入れる役割を担っていたようです。
ところで、実物の出水の酒船石ですが、現在は京都南禅寺エリアの野村別邸にあるそうです。
模型でも再現されていますが、南池の底には石が敷き詰められていました。
北池に比べれば浅い池だったことが判明しています。
上方から出水の酒船石を見下ろします。
手前に復元されているのは石組暗渠でしょうか。巧みな技術で地下水路も通っていたようです。
飛鳥京跡苑池のイメージ図。
南池に浮かぶ中島や、そこに根を張る松の木が描かれています。池の右奥に見えるのが流水施設でしょうか。
休憩舎内ではビデオ鑑賞のスペースも用意されています。
パイプ椅子に座って、飛鳥京跡苑池の発掘調査の様子を振り返ります。中島エリアから松の根が出土した時の写真も目にすることができました。
こんな感じで楽しみます。
画面がリズミカルに切り替わり、次から次へと学習を進めていきます。
残念ながら週末に行われた北池の現地説明会には足を運べませんでした。簡単ではありますが、この場所で穴埋めをすることができました。
北東から見た南池。
現在は埋め戻されていますので、発掘当時の様子を知るには休憩舎へ足を運ぶ必要があります。
休憩舎は今春にオープンしたようです。
映像やパネルを通して、飛鳥京跡苑池の発掘成果を学びます。同一エリア内には公衆トイレも設置されていました。
休憩舎の入口付近。
飛鳥京跡苑池のリーフレットをはじめ、明日香村観光の案内冊子が並びます。
流水施設の模型横に写真パネルが展示されていました。
南池に設置されていた石造物ですね。1916年に発見された石造物の写真が掲示されています。
時は下り、橿原考古学研究所が平成11年(1999)に出水の地を調査したところ、広大な苑池が姿を現したのです。
南池からは、1916年に2石(写真上)、1999年に2石(写真中)、合計4石の石造物が出土しました。石造物へは石組暗渠(写真右下)を通して水が供給され、池中へと吐水していました。
石造物の十分の一サイズの復元模型を休憩舎内で展示しています。
真上から模型を見下ろします。
五角形の南池の南端に取り付けられていました。
カラーの航空写真を飛鳥京跡苑池にかざします。
苑池の右側を細い道路が通っていますが、このまま北へ向かえば飛鳥寺方面へアクセスします。
こちらが公衆トイレ。
北を向いて撮影しています。
この見取図は分かりやすいですね。
水路が北方へ伸びている様子も描かれています。
飛鳥京跡。
以前までは「伝飛鳥板葺宮跡」と言っていましたが、現在は「飛鳥京跡」に改称されています。
「日本遺産」として飛鳥京跡苑池が紹介されていました。
斉明天皇造営の苑池であることが案内されています。
土木工事に傾倒したとされる女帝ですが、そのお墓は八角墳の牽牛子塚古墳が有力です。重労働の土木工事に駆り出された民衆から、「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と揶揄された斉明女帝ですが、飛鳥京跡苑池の建設に当たっては皆の心が一つであったことを願います。
Asukakyo Enchi Site
飛鳥宮の庭園跡。中国などの影響を受けて、斉明女帝が宮殿に隣接して造った饗宴の空間。
石造物(石槽)のすぐ東側には、掘立柱建物が建っていました。
未来の活用を見据えてか、南池の跡には水が張られたこともあるようです。近い将来、中島や松の木も復元されて私たちの目を楽しませてくれることでしょう。
今は何もない飛鳥京跡苑池。
思えばキトラ古墳の周辺地区も同じような感じでした。ところが今はどうでしょう。立派な『四神の館』が開館し、多くの観光客を呼び込んでいます。キトラ古墳まではいかなくとも、保存整備とその活用が順調に進むことを願います。
北池の発掘調査も、いよいよ最終局面を迎えているのでしょうか。
建設現場でよく見る重機が横付けになっていましたので、そう遠くない内に埋め戻されるのかもしれません。
饗宴の場だったのか?
はたまた儀式の場だったのか・・・様々な想像を膨らませてくれる国の名勝です。
明日香村はいつも動いています。
発掘に次ぐ発掘で歴史を遡り、その一方で保存整備を進めながら未来へ向かいます。そのダイナミズムを感じながら、今日もまた飛鳥への想いを強くするのでした。