エビノコ郭ってご存知でしょうか?
橿原考古学研究所附属博物館の第3展示室入口付近に、飛鳥の宮の復元模型が展示されています。
天智天皇の死後、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇。翌年の673年に即位し、国を治めることになります。日本の礎を築いた天武天皇の飛鳥浄御原宮は、古代史ファンの間でも人気の宮殿です。
飛鳥宮の南東方向に造られたエビノコ郭。
宮殿の多くが南側に門を持ちますが、不思議なことにエビノコ郭は西側に門が設けられていますね。お宮の造営に際し建てられた、新たな大極殿なのでしょうか?現在の小字名を取って、エビノコ郭大殿(おおどの)と呼ばれる建物です。
飛鳥浄御原宮におけるエビノコ郭の位置
中庭を望むベンチの置かれた休憩スペース。
そこから第3展示室に入るや否や、まず目に飛び込んで来るのが飛鳥京の復元模型です。その中でも、一番手前の目立つ位置にエビノコ郭が展示されています。
西側に5間×2間の門がある長方形の区画である。内部には9間×5間のエビノコ大殿(おおどの)と、脇殿がおそらく2棟存在する。区画の南側には、朝堂が存在したと推定される。最近の研究では、天武天皇の飛鳥浄御原宮の段階に新たにつくられたという意見が有力である。おそらくのちの大極殿的な性格をもっていたと考えられる。
果たしてエビノコ郭は、後の大極殿へとつながる建物なのでしょうか。
西に門があったり、お宮全体の南東方向に位置していたりと、ちょっと不思議な印象を受けます。そもそも大極殿の大極とは、北極星を中心とする星座を意味しています。かの徳川家康が北極星を意識していたように、宇宙の中心たらんとする聖地なのです。そんな聖なる場所がなぜ中心線から外れているのか、腑に落ちない面もあります。
天子や皇帝は、北を背にして南を向きます。天子南面の考え方から言っても、西の方向に門があるというのは妙な気がしますよね。
こんな感じです。
一番手前に見えるのがエビノコ郭です。
台形に区画された場所に居を構えています。これまでの発掘調査の結果をもとに復元された模型で、エビノコ郭の北方にある内郭や外郭も併せて見学することができます。
橿原考古学研究所附属博物館の外観。
ところで、エビノコ郭の名前の由来にもなっている地名(エビノ子)ですが、明日香村役場付近の小字名とされます。蘇我蝦夷・入鹿がここに大殿を造ったとも伝えられます。エビノコと蝦夷も深い関係があるのかもしれません。
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