久しぶりに奈良の十輪院を訪れました。
本堂内の石仏龕拝観が目的です。
写真で抱いていたイメージよりも大きな石仏龕に感動しました。また、今回のお参りでは新たに茶室の存在に気付きましたのでご報告しておきます。
十輪院の茶室『頻婆果亭』(びんばかてい)。
頻婆(bimba)とは、インド原産のウリ科植物を表します。真っ白な花に真っ赤な身を付けるようです。その燃えるような赤に似せるためか、茶室内の壁も赤褐色に仕上げられています。
会津弥一も見た頻婆果の仏の唇
仏像は本来、鮮やかに装飾されていました。
十輪院に近い新薬師寺の十二神将なども、造像当時は極彩色の仏像でした。長い年月の間に色褪せて、今は古色蒼然とした魅力を解き放っています。それはそれで素晴らしいのですが、本来は違ったはずです。
仏様の容貌の特徴の一つに、「唇は頻婆の果実のように赤い」というのがあります。
かの会津弥一は、奈良国立博物館を訪れていにしえの仏像を目にした時、こう詠んだと言います。
褪せたるを人は良しと言う。頻婆果の仏の唇は燃ゆべきものを
人は古さを良しとするが、本来の仏像はもっと生き生きとして我々に語りかけてくるような姿であったはずではないか?確かにそうなのかもしれません。新薬師寺で放映されていた極彩色の仏像ビデオを視聴し、現在私たちが見ている仏像の姿は何なのか、そう感じたことを思い出します。
何と言っても、赤い唇は生命力の象徴ですよね。
国宝の本堂。
本堂の中央奥に石仏龕が祀られていました。
向かって左手には理源大師、右手には弘法大師空海が祀られます。
ドイツの有名な建築家、ブルーノ・タウトも称賛したという十輪院本堂ですが、その手前部分は鎌倉時代の建築で天井の低い庶民的な造りです。その奥の覆屋の中に石仏龕が収まります。堂内に入ってみて分かることですが、十輪院の本堂は後方の石仏龕を拝むための礼堂として建立されたようです。石仏龕を祀るスペースと礼堂は明らかに別の建物でした。
本堂向かって右片隅には、小さな念持仏や杮経(こけらきょう)などが展示されています。杮経とは桧の切れ端を扇状に束ねて広げるお経で、一枚一枚の杮の表面には細かい字で経文がしたためられていました。自然鉱物の容器である褐鉄鉱もディスプレイされ、なかなか見ごたえのある展示スペースです。
頻婆果亭は興福寺曼荼羅石の右横に建てられています。
数年前の写真を見返してみましたが、その場所には何もありませんでした。ちょうど上手い具合に収まっていますね。
十輪院の地蔵石仏。
お地蔵さんの左に掲げられる写真は、石仏龕の脇侍・釈迦如来ですね。
元をただせば、露天に晒された地蔵石仏だったようです。右手に錫杖を持たないスタイルは、平安時代の地蔵仏を象徴します。鎌倉時代以降のお地蔵さんは、右手に錫杖を携えるのが慣わしです。
それぞれの仏像の位置関係ですが、石仏龕の中尊に地蔵菩薩が祀られます。
向かって左側に釈迦如来、右側には弥勒菩薩を従える格好です。仏像の中でも最も位が高いとされる釈迦如来を ”お地蔵さん” が従えています。これも十輪院ならではですね。
頻婆果亭の利用は、本堂内の参拝者に限られます。
定員は6名で、茶室利用付きの拝観料は1,200円となります。茶道に嗜みのある方は、是非一度お使いになられてみてはいかがでしょうか。
歴史を刻む引導石!元興寺塔頭の十輪院
よく私たちは、諦めの悪い人に「引導を渡す」という表現をします。
引導とは仏教用語の一つで、迷っている衆生を導いて悟道に入らせることを意味します。死人を済度する儀式であり、葬儀の際には導師が棺前に立って転迷開悟を説きます。その引導にまつわる「引導石」が石仏龕の御前に置かれていました。
山門入って左手の休憩所。
その右奥に見えるのは護摩堂(不動堂)です。
毎月8日及び特別公開の際には、護摩堂内の不動明王像と二童子立像が拝観できます。護摩が焚かれるお堂ですから、おそらく堂内は煤けているものと思われます。
菊花が飾られ、秋の風情を感じます。
奈良市内の平城宮や御蓋山では『天平菊絵巻』が開催されています。かつてのあやめ池遊園地やひらかたパークを思い出しますね。
休憩所には石仏龕の写真が掲示されていました。
お寺の方の話によれば、この龕は解体することが出来るそうです。
石仏龕には釈迦如来や弥勒菩薩をはじめ、不動明王、十王、四天王等々の仏像が居並びますが ”後付け” で合体したもののようです。地蔵菩薩、釈迦如来、弥勒菩薩の三尊の目線を追うと、どれも龕前の引導石に集まっているのが分かります。
死者の身骨や棺を安置したという引導石。
つるっとした表面の引導石でしたが、実際にその上に棺が置かれ、諸仏の温かい眼差しを受けつつも審判を仰いでいたのかと思うと、遠い昔に引き戻されるような錯覚に陥りました。
理源大師と弘法大師でしょうか。
修験道の理源大師と真言宗の弘法大師・・・南都十輪院は真言宗醍醐派のお寺です。
南都七大寺の元興寺旧境内に位置しており、元興寺の塔頭であったことをうかがわせます。奈良県には「十輪寺」というお寺がありますが、「十輪院」とは関係が無いようです。何々院と「院」の名が付くお寺は、かつての大寺の塔頭だったようです。
護摩堂の脇に建つ石塔。
燦々と太陽光が降り注いでいました。
かつての元興寺の寺域はかなり広く、今も奈良町界隈の地名にその名残が感じられます。
十輪院のある場所は十輪院町ですが、公納堂町(くのうどうちょう)や薬師堂町などにも、元興寺の歴史が感じられます。かつての元興寺禅定院の公納所があった場所が公納堂町とされます。
十輪院の拝観受付。
本堂の左手奥にありました。
十輪院の弘法大師坐像。
切れ長の目をしたイケメンですね。
永代供養墓「やすらぎの塔」の左横に、ずらりと墓標が並んでいました。
すぐ背後には民家が迫ります。
江戸時代初期の御影堂。
堂内には弘法大師坐像が祀られています。御影堂の正面に地下へ通じる階段がありますが、どうやら納骨堂のようです。
御影堂の右横に佇む石仏。
上部の欠けた宝篋印塔も建っていました。
光背を背負う地蔵石仏も祀られています。
まさしくここは静かな祈りの場所ですね。
十輪院は元正天皇の勅願寺として、奈良時代に建立されています。
御影堂の裏には「魚養塚」というお墓があり、日本人初の書道家・朝野魚養(あさのなかい)を開祖とするお寺のようです。
左手に宝珠を抱える出で立ちは、石仏龕の地蔵菩薩と同じです。
実に穏やかな表情ですね。
蓮池の畔に不動明王さんがいらっしゃいました。
鎌倉時代の石造不動明王立像です。
2m超の堂々とした体躯です。右手に利剣、左手には羂索を持って忿怒の表情を見せています。
覆屋で守られています。
護摩堂には重要文化財の不動明王像が祀られますが、こちらの石仏も見応えがあります。
よく見ると、わずかに彩色が残っていますね。
彩り豊かな仏像は、茶室・頻婆果亭の由来にも通じます。
想像するに、怒りの表情のお不動さんの唇も赤かったのではないでしょうか。強面(こわもて)の不動明王の口が赤いと、やはりインパクトがありますよね。
秋も深まる11月初旬、見所いっぱいの十輪院をレポート致しました。