古代史の謎解きに登場する磐余池(いわれいけ)。
古代の人工池ですが、その推定地が橿原市東池尻町にあります。
みずし観音を訪れた際に、立ち寄ってみました。
東池尻・池之内遺跡(磐余池推定地)。
みずし観音の丘陵東側に、その跡地を見ることができます。
磐余池の想定範囲が示されます。
地形に沿って、まるでアメーバのように広がっていますね。
磐余池の推定地に関しては、桜井市の若桜神社の西側一帯ではないかとする説もあるようです。いずれにしても、古代の磐余エリアは桜井駅から天香久山の東に至る一帯ですから、どちらもその範囲内に収まります。
磐余池の堤跡出土&磐余の地名由来
磐余池の場所は未だに確定されていません。
磐余池はかねてより、古代史の謎を解明する重要な鍵を握る池とされます。
材木の神様・石寸山口神社などもその影響下にあるものと思われます。
藤原京時代の大溝。
水量調整用の深さ4m以上の大溝が掘られていたそうです。
堤の発掘調査風景(北東から池の方面を望む)
古代に築かれた巨大な人工の池の跡です。戒外川の東岸から西方の御厨子神社が位置する丘陵にかけて、長さ300m、幅20~55m、高さ2~3mの土手状の「高まり」が存在しています。南に広がる谷を塞ぐ位置にある、この「高まり」が池の堤の跡です。古代には堤の南側に巨大な池が広がっていました。堤は丘陵の延長部分に盛土を施して築かれています。現在、堤の上は畑や宅地に、池の部分は水田となっています。
堤は6世紀後半には存在しており、堤の上では6世紀後半~7世紀前半の建物や塀が多数発見されています。藤原京の時代(7世紀末~8世紀初頭)には、堤の一角に水量調整用と考えられる深さ4m以上の大溝が掘られています。堤の外(北)側の裾付近には石敷が施されている地点もあります。池は12~13世紀頃には埋没して耕作地になったようです。
この池は『日本書紀』や『万葉集』にたびたび登場する「磐余池」にあたるのではないかと考えられています。
平成27(2015)年3月 橿原市教育委員会
そもそも、磐余という地名はどこから来ているのでしょうか?
神武東征によって大和が平定され、多くの人々が集ったことに由来すると言われています。
『日本書紀』によれば、神武天皇の軍が勝利を収め、軍人たちが大和の地にたくさん集まったことを「満(いは)めり」と表現しています。
自動詞の「満む(いはむ)」は、たくさん集まることを意味します。
神武天皇の正式名は「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)」であり、”磐余(いわれ)” がちゃんと入っています。多くの民が集まり、その象徴である天皇に「磐余」が付されるのもうなずけますね。
みずし観音と背後の丘陵。
磐余池の案内板手前から西方を望みます。みずし観音の参道沿いに石燈籠が並んでいますね。
みずし観音の参道手前には、大津皇子の万葉歌碑が建っています。
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
かつての磐余池には、鴨も飛来していたのでしょうか。
大津皇子の辞世句にも詠まれた磐余池。ここに巨大な人工池があったのかと思うと、悠久の歴史を感じずにはいられません。
磐余池推定地。
長閑な田園風景が広がります。
磐余池の東を通る道路。
この地点から、御厨子観音妙法寺までの距離は300mのようです。橿原市昆虫館も徒歩圏内ですね。
御厨子観音の方へ歩いて行きます。
無花果の実ですね。
行く手に見える丘陵の中に、御厨子観音や月輪石(御厨子神社)があります。
御厨子観音の手前の畦道を右折して進むと、大和長寿道へと出ます。
大和長寿道沿いに建つ道標。
東の安倍文殊院、南の本福寺を指します。
この道を西へ進めば、薔薇や風鈴でおなじみの小房観音へアクセスします。