宇陀市榛原福地の「庚申堂の辻」。
青越伊勢街道と笠置街道の分岐点に当たります。”右 いせ 左 は山(吐山) 道” の石標が立ち、往時の空気を漂わせます。
庚申堂の辻。
辻々にお地蔵さんや庚申さんが祀られることはよくあります。
道行く人々の目印になり、旅の安全を願う意味合いも込められたことでしょう。峠に立つお地蔵さんなどは、疫病除けにもなったと聞きます。道中の節目に、さりげなく置かれるものに思いを新たにします。
辻に建つ「右いせ、左はやま道」の道標
伊勢街道に見られる道案内。
ここ榛原福地にも、昔の道標が立っていました。
福地の庚申堂。
お堂手前の石柱には、「孝心」と刻まれているのでしょうか?
庚申堂の辻に残る道標。
カーブミラーや電柱が写り込み、やや風情を損ねてしまいました(^-^; いつからこの場所にあるのでしょう。時を刻み続ける道標に、思わず手を合わせます。
庚申堂の辻の案内板。
奈良県宇陀市榛原福地
萩原の札の辻で分岐した「あを越え伊勢街道」(初瀬街道)は山裾を蛇行しながら、東町から福地へと古い町並みが続きます。町外れのこの道標には「右いせ 左はやま道」とあり、伊勢への道は右折して道路を渡り、しばらく山裾の道を歩くと国道165号に合します。そこから旧街道は国道の新設と近鉄線の架設によってなくなり、その一部が山辺三に里道として残るだけとなっています。
古代の伊勢への道は壬申の乱の経路からも、この初瀬街道を利用したのではないかと考えられます。『万葉集』には「わが背子は何処(いずく)行くらむ奥つもの隠(なばり)の山を今日か超ゆらむ」と、朱鳥6年(692)に持統天皇の伊勢行幸の共をした夫を思いやる、当麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻の歌が見えます。
国道を1キロメートル余り行くと天満川をこえる橋があります。近世の初瀬街道は、この橋の手前を川に沿って南の・・・
万葉歌に出てくる”隠(なばり)の山”。
現在も吉隠(よなばり)、名張(なばり)などの地名が残りますが、いずれも山深い地を表しています。隠れることを「なばる」と表現したようです。
車や自転車の無かった時代。
ひたすら歩いて移動する中、追分(おいわけ)とも呼ぶ分岐点に差し掛かると、今の比ではない思いが込められたことでしょう。目にするもの、かすかに聴こえる風の揺らめき、ほのかな香り、五感でキャッチする情報は豊富だったに違いありません。