八角形墳の野口王墓古墳。
鬼の俎・雪隠古墳から少し下った所に、夫婦で合葬されている天武・持統天皇陵があります。見学に訪れたのは12月初旬でしたが、陵の周囲にはたくさんの柿や蜜柑の木が植えられていました。
明日香村の農家の方々と寄り添うように、ひっそりと佇む天武・持統天皇陵。
ぱっと見では分かりませんが、天武・持統天皇陵は五段構造をした八角墳だとされます。
八角形の古墳といえば、天武天皇の母親に当たる斎明天皇の陵墓・牽牛子塚古墳を思い出します。近鉄飛鳥駅の線路西側に牽牛子塚古墳、息子の天武天皇のお墓は東側に位置しています。ちなみに、天武天皇の父親に当たる舒明天皇の陵も八角墳だと言われており、忍坂街道に眠ります。
火葬された持統天皇!檜隅大内陵
天武持統天皇陵を語る上で、いつも注目を集めるのが荼毘に付された持統天皇です。
我が国で初めて火葬にされた天皇が持統天皇なのです。衛生環境面からも土葬の限界が近づいていたのか、大化の薄葬令が影響しているのか定かではありませんが、とても興味深いところです。
天武・持統天皇陵。
小高い丘の上に、第40代天武天皇と第41代持統天皇が葬られています。
この第40代というところに、個人的な見解ではありますが、なぜか引き込まれるものがあります。40という数字は、何か一つの大きな区切りを意味する数字のように思えるからです。米国の第40代大統領はロナルド・レーガン、日本の第40代内閣総理大臣は東條英機です。いずれも歴史の大きな転換点に活躍した人物です。
天武・持統天皇陵へ続く石段を登って行く途中、振り返ると高松塚古墳や飛鳥駅へ伸びる道が見えます。なんだか爽快な気分が味わえる景色ですね。
宮内庁管轄を意味する結界石なのでしょうか、「宮」という字が彫り込まれています。
天武・持統天皇陵は陵墓なので立ち入り禁止であることは言うまでもありませんが、なぜか被葬者が確定されています。天武・持統天皇の合葬墓であると断定できる理由はどこにあるのでしょうか?
実はこのお墓、ご多分にもれず長い歴史の中で盗掘に遭っています。その犯人を取り調べた調書が残されていたため、お墓の中の様子が手に取るように分かったのです。
ベンチの背景に写る天武持統天皇陵。
飛鳥の亀石から地下道を通り、野口駐車場の所を左折してなだらかな坂道を下りて行きます。しばらくすると、右側に木のベンチが設置されていて、その向こう側にこんもりとした天武・持統天皇陵が見えてきました。
この辺りは最近まで工事が行われていて、随分綺麗になっていました。飛鳥の周遊が益々楽しくなりますね。
すすきと天武・持統天皇陵。
天武天皇はお墓の中で横たわっていたそうですが、妻の持統天皇は火葬にされています。大化の薄葬令の影響なのでしょうか、我が国で初めて荼毘に付された天皇として語り継がれることになります。
古墳の玄室奥には、金銅製の棺台が置かれていたそうです。
その上に漆塗りの木棺が安置され、被葬者の天武天皇が永い眠りに就いていました。棺の前には銅製の外容器と銀製の蔵骨器があり、これらは火葬された持統天皇のものと目されます。
薄葬令とは、要するに「そんなに手厚く葬らなくていいよ」ということです。
昔は一人のお偉い方が亡くなると、周囲の馬や人も殉死したりしなければならず、なかなか大変な犠牲が払われたと言います。一人ずつに巨大な墓を築造していたのでは、それに費やされる時間や労力も半端ではありません。今となっては、夫婦で一緒のお墓に入ったり、先祖代々の墓として祀られることは当たり前のことですが、当時は天皇の合葬などというのも大変珍しいことであったと思われます。
天武・持統天皇陵は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)とも称されます。
檜隈(ひのくま)というのは、この辺りの地名を指します。
飛鳥時代には渡来人の居住地として栄えた場所です。当時の権力者であった蘇我氏が、渡来人の知を結集して繁栄した時代が飛鳥時代です。かの有名な飛鳥寺も、渡来系の工人たちによって造られたと伝えられます。
檜前(ひのくま)、日前(ひのくま)と書くこともありますが、「前」は「隈」を好字化したものです。そういえば、天武持統天皇の孫に当たる文武天皇の陵の名前も、檜隈安古岡上陵(ひのくまの あこのおかのえの みささぎ)と言いましたね。文武天皇陵が高松塚古墳の近くにあることを考えれば、檜隈という地名が広範囲に及んでいることが伺えます。
持統天皇は自らを火葬にしてほしいと望んだそうですが、その理由はどこにあるのでしょうか?
律令国家の礎を築いた天武天皇の時代から、徐々に国家としての姿が形成されていく日本。推測の域は出ませんが、おそらく人々も一箇所に集中して居住するようになっていったのではないでしょうか。都市機能が進むにつれ、埋葬の問題が出てきてもおかしくはありません。
単なる土葬では衛生的に問題があったのではないでしょうか。
疫病除けのためにも火葬が推奨されていったのではないか?そんな風にも思えるのです。
天武・持統天皇陵の脇を縫うように進んで行くと、鬼の俎・雪隠古墳へと続きます。
その途上の曲がり角にお地蔵さんが祀られていました。向こうに見えているのが天武・持統天皇陵です。
法事の席で三回忌というのがありますが、人の死後には、ある一定の喪に服する期間が設けられています。亡くなってから肉体が完全に無くなり、骨と化すまでの期間であったのかもしれません。腐敗の進む肉体は、確かに衛生的に大いに問題があります。死生観の変化が生じていくのは、時間の問題だったのではないでしょうか。
お地蔵様はよく閻魔大王とセットで語られます。
煮えたぎる地獄の釜に入れられた人をも助けるお地蔵様。
あの世にまで足を運んで、地獄の釜から助け出してくれるのが地蔵菩薩なのです。鬼の俎・雪隠古墳と天武・持統天皇陵の間に祀られるお地蔵様。静かに何かを物語っているようにも思えます。
天武・持統天皇陵へ続く石段脇に、こんな結界石も見られました。
いや、これは普通に転がっている石ころに赤い色を塗っただけではないか、そうとも取れます。いずれにせよ、赤い色には魔除けのメッセージも感じられますね。
藤ノ木古墳や箸墓古墳等々、被葬者が謎のままのお墓は奈良県内にも多数あります。
そんな中で、被葬者が判明している天武・持統天皇陵は一見の価値があります。
迷走する現在の日本ではありますが、日本の起源を辿って行くと、この地に行き着く。そんな見方もできる、歴史好きには是非おすすめしたい観光スポットでもあります。