桜井市小夫の天神社。
天照大神を奉祀した元伊勢の地として伝わります。
社殿へ上がって行く石段脇に、江戸時代のお伊勢参りを匂わせる石燈籠が建っています。
傾斜地に築かれた石垣手前に建つ燈籠。
笠の部分に苔が生え、それなりの時間の経過を感じさせます。
狂喜乱舞のおかげ踊り!約60年周期で巡る抜け参り
江戸時代に流行ったというおかげ参り。
伊勢神宮に団体で詣でることを意味しますが、お伊勢さんへ続く街道沿いは宿場町として賑わいました。実際に伊勢神宮まで足を運ばなくとも、参拝客に施しを与えるだけでご利益があるとも言われます。施行(せぎょう)で賑わった大和八木のセンタイバにその名残を見ることができます。
伊勢神宮へのおかげ参りは、およそ60年周期で大いに盛り上がったようです。
おかげ参りの当たり年は「おかげ年」と呼ばれました。
おかげ燈籠が小夫天神社に奉納された1830年(文政13年;天保元年)には、河内国においておかげ踊りが大流行したと言います。囃し立てながら踊り狂う様は、一種のトランス状態を思わせるものだったでしょう。
小夫天神社のおかげ踊り燈籠。
燈籠の竿に「太神宮」と刻みます。かつての伊勢街道に数多く見られる太神宮燈籠ですが、この石灯籠は奈良県下に3基しかない珍しい燈籠です。
小夫天神社の社号標。
「斎宮山鎮座天神社」と刻みます。
天武天皇の皇女・大来皇女(おおくのひめみこ)が天武2年に斎王として伊勢に赴く途中、潔斎のためこの地に滞在したと伝わります。誉れ高き”伊勢斎宮”というわけですね。
燈籠から下手に振り返ります。
小夫天神社の鎮座地が山深い場所であることが分かります。
おかげおどり燈籠の案内板。
文政13年(1830)12月吉日 講中により奉納したもので、江戸時代庶民の間で伊勢神宮参詣が流行した。
おかげ燈籠は数多くあるが、「おどり」とつく燈籠は県下に3基しかなく、その内の1基です。 社務所
向かって右手の灯籠が、おかげおどり灯篭です。
おかげ踊りの狂騒の中、雇い主に内緒で伊勢詣でに出掛ける者もいました。あるいは親に相談もせず、子供たちだけで伊勢の地に旅立つこともあったようです。抜け参りの風習が定着すると、それを取り締まる動きも活発化します。良し悪しは別として、当時の庶民のエネルギーを感じます。
1830年の河内国に端を発したおかげ踊りは、後に幕末のええじゃないか踊りへと発展します。明治維新へと続く時代の流れを振り返ると、おかげ踊りの果たした役割は決して小さいものではなかったでしょう。
伊勢の名物「赤福餅」。
かつての赤福餅のCMソングが頭の中で流れます。ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか、伊勢の名物~、赤福餅はええじゃないか(^^♪