般若寺の宝蔵堂に収められている唐櫃(からびつ)。
『太平記』で名高い唐櫃ですが、その伝説の舞台は境内の一切経蔵だったと伝えられます。唐櫃ゆかりの大塔宮護良親王のエピソードに迫ってみました。
大塔宮護良親王供養塔。
般若寺境内の片隅にひっそりと祀られていました。右向こうに見えているのが、般若寺の鐘楼です。
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の第三皇子に当たります。護良(もりなが)親王はわずか6歳にして、天台宗梶井門跡(京都東山岡崎)にて出家しています。大塔の名前の由来ですが、東山岡崎にある法勝寺九重大塔のほとりに門室を構えたことに因みます。その後なんと、19歳で天台座主に就いたと伝えられます。
元弘の乱で鎌倉幕府軍に追われた護良親王
般若寺の拝観口近くに、「南朝御聖蹟」と記されていました。
南朝と言えば後醍醐天皇を思い出すわけですが、吉水神社の北闕門などはまだ記憶に新しいところです。南朝といえば吉野、吉野といえば南朝というふうに結び付きますが、遠く北方の奈良市内にも南朝にまつわる聖蹟が存在していたんですね。しかも、それが般若寺だったとは意外でした。
護良親王の供養塔。
その歴史は元弘元年(1331)に遡ります。
元弘元年の8月、討幕計画が漏れる「元弘の変」が起こります。後醍醐天皇は笠置山に遷座籠城され、護良親王は宗良親王と共に参戦することになりました。ところが幕府の大軍に攻められ、あえなく笠置は落城。命からがら般若寺へと落ち延びます。幕府方の追手が五百の兵を率いて般若寺を探索したとき、護良親王は大般若経の唐櫃に身を潜めて難を逃れたと伝えられます。
供養塔の道案内。
境内には道案内や解説パネルが細かく設置され、とても分かりやすい印象です。
南朝御聖蹟の箇条書き。
般若寺の御本尊・八字文殊菩薩も後醍醐天皇の勅願だったのですね。併せて般若寺本性房奮戦の逸話も案内されています。
般若寺の唐櫃にまつわる俳句。
般若櫃 うつろの秋の ふかさかな
阿波野青畝の句碑が建っていました。四角い木枠の中にも、般若寺名物のコスモスが根を張ります。
本尊を祀る般若寺本堂を望みます。
大塔宮護良親王の読み方ですが、どうやら二通りあるようです。
「おおとうのみや もりながしんのう」、或いは「だいとうのみや もりよししんのう」と読みます。唐櫃の舞台となった一切経蔵は、十三重石宝塔のすぐ脇にありました。
経蔵(鎌倉時代)重要文化財
お経の全集である一切経(大蔵経)を収納するお堂。
建物は当初床のない全面開放の形式で建てられ何に使われたかは不明であるが、鎌倉末期に経蔵に改造された。収蔵のお経は中国で南宋から元の時代に大普寧寺で開版された「元版一切経」(5,500巻)で800巻余が現存している。般若寺の一切経は仏教の数学研究に利用されるとともに、毎年4月25日(旧3月)の「文殊会式」では一週間かけて「一切経転読供養」が営まれ滅罪生善の利益を受けることにも供された。
「太平記」によると「元弘の乱」のとき、後醍醐天皇の子息、大塔宮護良親王が南都において倒幕の活動をして敵方の捜索にあい、般若寺にかくまわれた際、当経蔵にあった大般若心経の唐櫃に潜み危難をのがれることができたという。本尊は旧超昇寺の脇仏であった十一面観音像(室町時代)。
仏教の数学研究にも利用されるという般若寺の一切経。
仏教と数学・・・お互い相いれないジャンルのようにも思えますが、どこかで通じているのでしょうね。少し興味を覚えました。文殊会式で営まれる一切経転読供養ですが、今も行われているのでしょうか。
おそらくこれはシーシェルという品種ですね。
花弁が筒状に開いています。
経文を納める大きな箱。
それを唐櫃と言います。
そこで息をひそめ、生き延びることができた護良親王に想いを馳せます。
一切経蔵の御本尊が案内されていました。
今は公開されていないようですが、有名な長谷寺式十一面観音のようです。
十一面観音菩薩立像 室町時代 像高124cm
本像は長谷寺式十一面観音菩薩立像である。内部の墨書銘によると、元は超昇寺本堂(現在は廃寺)の左脇壇を祀るために、南都の宿院仏師によって造られた。ただ、いつの時期にどのようにして般若寺に移入されたかは明らかではない。傷みがひどく現在は公開していない。
名仏師の宿院仏師が造った仏像ということで、益々興味が湧きます。
今回の拝観では、白鳳時代の秘仏・阿弥陀如来立像を拝ませて頂きました。十三重石宝塔の中で長い間眠っていた仏像で、すこぶる保存状態の良い仏像でした。その点、こちらの十一面観音は傷みがひどいようですね。補修が施されて、再び拝観できる日が来ることを願います。
一切経蔵の御前に咲くコスモス。
護良親王を偲ぶ森鴎外の歌碑もあったようなのですが、残念ながら見落としてしまいました。鴎外は詠います・・・
般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を のがれわびけむ 皇子しおもほゆ
昨今では、ケイタイ小説『キミノ名ヲ』が出版され、護良親王の名前が一般的にも知られるようになりました。漫画本も出版されているようですので、ご興味のある方は是非ご参照下さい。