昭和46年(1971)に発掘調査のあった奥ノ芝2号墳。
榛原石をレンガ状に積上げた横穴式石室が、今も住宅地公園内に開口しています。磚積式石室の玄室内には、かろうじて石棺が残されていました。一時は解体された石棺のようですが、今は元通りに復元されています。
玄室内の組合せ式箱形石棺。
煉瓦状に積まれた磚積(せんづみ)式石室が印象に残ります。桜井市の舞谷2号墳も磚積式石室でしたが、この辺りでしか見られない石室の特徴に興奮を覚えます。奥ノ芝2号墳の開口部は施錠されており、石室の中には入れませんでした。でも、さほど奥深い石室ではないため奥壁まで十分に見通すことができます。
ひのき坂南公園にある直径10mの終末期古墳
奥ノ芝2号墳の場所ですが、榛原中学校からもそう離れてはいません。
国道から福地の民家エリアへと入り、高台の榛原中学校を目指します。中学校のグラウンドの部室棟を左手に見ながら右へ折れます。突き当りが丁字路になっており、そこを左折します。程なく正面にこんもりとした丘陵が見えて参ります。
奥ノ芝2号墳の墳丘。
ここを右手に行けば、ひのき坂南公園の正面入口に通じています。古墳見学の方は左手に進んで下さい。程なく石段があり、そこを上がって行けば最短距離で奥ノ芝2号墳の石室に辿り着きます。
奥ノ芝2号墳の周辺地図。
1丁目と記されたポイントの下に現在地が見えていますが、その左側に広がる緑地に奥ノ芝2号墳の墳丘があります。2号墳の石室の場所ですが、ひのき坂南公園テニスコートのちょうど裏手に当たります。ちなみに奥ノ芝1号墳は、北方向の古墳公園内に復元されています。
奥ノ芝2号墳の墳丘。
周囲にはフェンスが張られていますが、民家の横手から入ることができました。普段は誰も立ち入らないのか、足元はかなりフカフカの状態です(笑)
奈良県指定史跡 奥ノ芝2号墳
榛原町教育員会による解説が長々と記されていました。
かつてこの周辺には南北にのびる細長い尾根があり、尾根上に4基の古墳から成る奥ノ芝古墳群、福地城遺跡(古墳時代の住居跡、中世の城跡)がありました。
奥ノ芝2号墳は1971年に発掘調査が行われ、直径約10mの円墳で、埋葬施設は南に開口する磚積(せんづみ)石室であることが明らかとなりました。磚積石室は、薄い流紋岩質凝結凝灰岩(通称榛原石)をレンガ状に積上げた横穴式石室で、桜井市から宇陀地方を中心とする限られた地域に分布する珍しいものです。
石室の規模は全長7m、玄室3m、同幅1.9m、同高1.9m、羨道4m、同幅1.37m、同高1.55mです。石室内には組合せ式の箱形石棺や木棺が安置され、ここからは須恵器、土師器、金環(きんかん)、鉄鏃、鉄釘が出土しています。北方に位置する1号墳よりもやや早い7世紀前半の築造と考えられ、貴重な終末期の古墳です。
古墳公園にある1号墳よりも、時代的にはやや早い古墳のようです。
ここ福地にはお城もあったのですね。立地的にも何となく分かるような気が致します。
開口部へと上がって行きます。
真冬でしたが、歩を進める度に足元が沈み込みます(笑) 草木の繁茂する夏場だと、近づくのも大変なのかもしれません。
開口部に到着。
鉄柵の手前にも草が覆い被さっていました。
手で除けながら石室内を撮影。
中にこそ入れませんが、十分に磚積式石室を堪能することができます。
やや上の角度から。
羨道から玄室へと、均等に両サイドが広がっていますね。
どうやら両袖式の横穴式石室のようです。
やや持ち送りも見られますね。
石棺は鎌倉時代に二次利用されたようで、その補修跡がはっきりと確認出来ます。
奥ノ芝2号墳は県の史跡に指定されています。
公園の片隅にひっそりと史跡があるのですから、さすがは歴史の宝庫・奈良県ですね。
開口部の手前には大きな石がありました。
羨道が4mあったようですから、おそらくその敷石に当たるものでしょう。
石段を上がった所。
フェンスの向こう側に見えるのが奥ノ芝2号墳の墳丘です。その左手には、鳥居のようなものが建っていました。
石段から北方向を見下ろします。
この道路の延長線上に宇陀市立榛原総合体育館があります。
私はこの後、その道中にある古墳公園内の奥ノ芝1号墳も併せて見学して参りました。