実物に勝るもの無し。
橿原考古学研究所附属博物館の展示物にはホンモノが多いですね。そのことを改めて知らされます。先日訪れた益田池堤跡の樋管(ひかん)がミュージアム内に展示されていました。
益田池の樋管。
川底の二箇所から樋管が出土したようです。古代の眠りから覚め、ミュージアム観覧者たちの目に晒されていました。
奈良県指定史跡から出土した樋管
益田池は平安時代の灌漑用池です。
現在の堤跡はその一部を残すのみですが、実物の樋管を目にすると、さすがにその迫力に気圧されます。よくぞ残っていたものだと感慨深いものがありますね。
橿原市白橿町にある益田池堤跡。
取り立てて見るべきものはありませんが、益田池堤跡は県の史跡に指定されています。
まだ暑い季節に訪れたため、堤跡は草木に覆われていました。
平安時代の遺構です。
何度も申し上げますが、レプリカではありません。
詳細が記されていました。
地図をよく見てみると、益田池の西側には宣化天皇陵や小谷古墳が見られます。
この樋管は昭和35年、橿原市池尻町で高取川の河川改修工事中に発見された、益田池の樋管である。長さ5.5m、幅1.2mの檜の大木を刳り抜いて用いている。
益田池は弘仁13年(822)機内に大旱魃が起きた際、藤原縄主(ただぬし)、紀末等、真円律師が中心になり築造した。池は高取川の水量を池尻町で長さ200m、幅30m、高さ8mの堤防で堰き止めたもので、その範囲は鳥屋町、南妙法寺町、見瀬町にまたがっていた。総面積は40ha、貯水量は約140万トンと推定される。
ヒノキ材が使われていたんですね。
140万トンとは想像を絶する貯水量です。
角度を変えて。
所々に朽ちた跡も、その価値を押し上げているような気がします。
樋管とは堤防を貫通して、取水や排水に使われた暗渠です。役割を終えた今、静かな余生を楽しんでいるかのようです。
橿考研博物館の駐車場から裏手へ回ると、弓道場がありました。
練習中でないことを確認し、橿原公苑の方へ向かいます。
こんな弓道場がミュージアムの近くにあったんですね。
たまには寄り道をしてみるものです。
橿考研の歩みは80年に及ぶようです。長い歴史の中で奈良県民のみならず、他府県の方々にも古代のロマンを見せ続けています。未来の橿考研も楽しみですね、ずっと見守り続けていきたいと思います。