王寺町本町の達磨寺古墳群。
達磨寺古墳群は横穴式石室が開口する1号墳をはじめ、2号墳、3号墳の計3基から成ります。いずれも聖徳太子創建の達磨寺境内にあります。3号墳は本堂基壇として埋没していますが、その他の古墳は見学可能です。
達磨寺1号墳の開口部。
東に開口する両袖式の横穴式石室です。墳形は円墳で、墳丘上には地蔵堂が建ちます。達磨寺古墳群の中では、唯一石室インが可能な古墳でした。
組合せ箱式石棺の一部が残存!雪丸の墓「犬塚」
達磨寺1号墳からは須恵器やガラス管玉が出土しています。
1号墳には興味深い伝承が残ります。王寺町マスコットキャラクターとして人気の“雪丸の墓”だとか、法隆寺まで続く穴だとか、色んなエピソードに彩られています。石室の中を見学すれば判りますが、決して法隆寺へ抜ける穴ではありません(笑)通常の横穴式石室と変わらず、玄室には奥壁があり行き止まりになっていました。
奥壁を背に、開口部に振り返ります。
現存する石室はそう長くもなく、入室に恐怖感は伴いません。それもそのはず、開口部前を元気な園児たちが行き交います。達磨寺のすぐ隣りが保育園なんです。ある意味、素晴らしい環境に恵まれた古墳と言えるでしょう。
達磨寺本堂。
本堂下に達磨塚と伝わる3号墳があります。
「片岡山飢人伝説」の達磨大師ですね。達磨寺の境内は、聖徳太子と達磨大師が縁を結んだ地です。本堂脇には問答石もありましたね。
太子が斑鳩から磯長谷(しながだに)へ向かう途中、飢えて倒れた男を見つけたそうです。太子は衣服を与えましたが、後日亡くなったことを聞かされます。そこで、墓を作って葬ったそうです。その数日後に、飢人の遺体は衣服を残して消え去ったと伝わります。その飢人こそが達磨大師であったとの説から、“達磨寺の縁起”として今に語り継がれています。
本堂内には、永享2年(1430)に椿井法眼集慶が彫ったという達磨坐像も祀られています。
こちらは達磨寺2号墳。
わずかに開口していますが、石室内には土砂が流れ込んでおり入室困難です。6世紀末の円墳で、1号墳のすぐ隣りにあります。
境内には3基の古墳があり、達磨寺古墳群と呼ばれている。いずれも6世紀末頃に築造された径15m程度の円墳であり、横穴式石室をもっている。1号墳の石室内には、組合せ箱式石棺の一部が残っており、須恵器や玉類、鉄鏃が出土した。
インバウンドの増加に伴い、きちんと英語案内もされています。
考古学で頻出する専門用語の翻訳が興味深いですね。須恵器が unglazed ware, 玉類が gems, 鉄鏃は iron arrowheads と訳されていました。
1号墳の横穴式石室、その左向こうが2号墳の墳丘です。
達磨寺の山号は「片岡山」で、宗派は臨済宗南禅寺派のようです。
1号墳(犬塚)の開口部から奥を覗きます。
小さい石材がたくさん積み上げられていますね。
天井石へ向け、やや“持ち送り”も見られるでしょうか。
組合せ箱式石棺の一部が残存しています。
細かい石がパズルのように積み重なります。
全長8mの石室で、奥まで光は届いていました。
パッと見は祭壇のようですが、おそらく石棺の残欠部なのでしょう。
埋葬施設の玄室も比較的明るく、スマホの照明無しでも確認することが出来ました。
巧みに組み合わさります。
左が1号墳で、右が2号墳。
ここは境内の北東隅に当たります。いわゆる鬼門ですね。
雪丸が身を挺して、達磨寺を守っているようにも映ります。本堂を中心に据えれば、対角線上の南西方向に雪丸像が建っています。ちょうど1号墳の方を向いており、表鬼門と裏鬼門の両方向からガッチリと固めていました。
達磨寺の駐車場。
国道沿い、西門の脇にある駐車場です。
境内には重要文化財の中興記石幢や瓦製露盤も見られます。王寺町内で古墳巡りを楽しむなら、明神山の登山ルートにある畠田古墳がおすすめですね。